足音が沈んでいく。
一時間ほど早ければまだ隊員たちが行き来していただろうヴァリアー本部の廊下は今は人気が無く、辺りを照らす白熱灯が却って白々しい。レヴィ・ア・タンは一束の書類を手にそこを歩いていた。
まるで今まで屠った人々の血を塗り込めたかのような深い赤色の絨毯が彼の長躯の影を映し、やわらかな毛足をもってブーツの踵を受けとめている。窓の外の夜は白けて、いくつかの星がまばらに見えるだけの空には油絵の具を指で伸ばしたかのようなかすれた雲が散っていた。
「ボス、昼間の任務の報告書を持ってきました」
「レヴィか、入れ」
建物の一等奥まった位置にあるドアを開けた途端、中からふわりと暖かく湿った空気が廊下へと流れ出した。正面のデスクの向こうに腰掛けているザンザスの髪は湿っていて、いつも緩めてはいるものの首に引っかけているタイがなく、そこに見えるのは真白いシャツと引き攣れた傷の浮かぶ素肌ばかりだ。
この執務室はザンザスの私室と繋がっているから、おそらくはそちらでザンザスがシャワーを浴びこの部屋へと湯気が流れ込んだのだろう。日頃は息が詰まるほどに固く渇いて生活感のない部屋の雰囲気が、ほんの少しだけ綻んでいる気がする。
「寝るところでしたか?」
「構わねぇ。今日はてめぇで仕舞いだ」
言いながら彼が視線を書類へ落とす。
左から、右へ。額に落ちた前髪の隙間から覗く目がひやりとするほど赤い。
秒針と紙の擦れる音だけが響くその場で、レヴィは目のやり場をなくした。書類の確認をする間会話がないのはいつものことだが、この雰囲気はどうもいけない。
濡れて重く垂れた髪が、タイのない胸元が、ほんの僅かに立ち上ってくるボディシャンプーの匂いが彼を落ち付かなくさ
せた。デスクの傍に立ったまま窓の外を見る。ずいぶんと長い間立ち尽くしている気がしたが、東の空はまだ暗く夜明けはなお遠い。
「っ…!」
不意に軽く息を呑むような音がしたかと思うと、下げた視線の先でザンザスが自らの指先を見つめていた。
よくよく目を凝らすとその先には玉のような血が浮かび上がっている。
書類の端で指を傷付けたらしい。
「ボ、ボス!大丈夫ですか!?」
レヴィの声が裏返るが狼狽えているのは端ばかりで、本人はといえばただ片方の眉を少しばかり寄せて黙り込んでいる。
彼らしくない不注意だとはいえるが所詮紙で切った程度、出血も痛みもいちいち騒ぎ立てるようなことではないのだ。
「今消毒液と絆創膏を…!」
さきほどまでのどこか落ち着かないような、浮ついた態度を一変させるレヴィにザンザスが目を閃かせた。
「どっちもいらない。舐めろ」
驚いて厚い唇を少し開いたまま、声を出すことも叶わずに固まっているレヴィに、彼は肘をデスクに付けたまま指先を差し出す。まるで磁力を持った赤い貴石のような目に促され、やっとのことで手首ごと持ち上げる。
よく使い込まれすべらかとは言いづらいが、それでも先細りの美しい手だ。
意外と細い手首に青く透けて見える血管。触れた指の腹には皮膚越しに浮いた筋と古い火傷の傷跡の感触があり、指先に並べられた爪の表面はつるりと硬質で少しだけ伸びている。凶器として振るわれるその手は指が長く、けれどレヴィのそれより幾分小さい。恭しく取ってみはしたものの、包んだ自分の手の無骨さといったら!
似合いもしない光景にこれは真に起こっていることなのかくらくらして、丸い血がざくろの一粒のように浮いた指先を戸惑いながら口に含むと見上げるザンザスがかすかに笑う。唇を歪めるような、ひどく人の悪い笑みだ。
かさついた唇が彼の指の中ほどを挟み、ピアスのキャッチや歯が触れないように舌が傷口を撫でるとまるで機嫌を良くしたかのように更に唇が歪む。眇められた目はレヴィの顔を、品定めでもするように見ていた。
唇を動かすたびにピアスに付けた鎖の音だけがしゃらしゃらとうるさい。
口腔内の指はザンザスの性質に似合わず大人しく、その味は血といわず皮膚といわず舌先が痺れるように甘い。湧き起こる怒りを炎に変えすべてを業火に晒そうとした苛烈な男の指先がこれほど甘いとは知らなかった。今この時まで、知ることになると思ってもいなかった。
「もう良い。退がれ」
しばらくの間咥えさせていた指を、やがて飽いたかのように支えていた手を無視して引き抜く。ふざけるように上顎の薄い皮膚を一撫でしてから。
少し白くなった指先を眺めるザンザスの表情はすでに普段と変わりなく、そんな彼の顔を真っ直ぐに見られないまま礼だけを深々としてレヴィは部屋を後にした。
書類を提出しておいて受理の声も聞かずに自分から部屋を出るなんて、ついぞ無いことだった。
ドアを閉めてからやっと聞こえるようになった心音は、Sランクの任務を連続で十本終わらせたとしてもこのようにはならないだろうと思うほど速く強く耳の内側で響く。唇も口の中もからからに渇いていて、気付いて唾液を飲み下すと自分で驚くくらいに喉が鳴った。
とっくに夜が明けているのだろうと思って見た視線の先では、窓の外でやっと東の空が燃え始めた頃であった。月は白く、一等星すらも霞んだ空に紛れていた。
舌の上には未だ甘露のような味が残っている。
(2008,2,10 レヴィ・ア・タンアンソロジー CHERRYBOY寄稿)
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