走る、跳ぶ、蹴る サンプル
靴音スタッカート/ベルフェゴール



 雲の流れが速かった。月は遠くで光っていた。星はまるで無造作に散りばめられたかのようで、吐き出す息が白かった。
「準備運動くらいにはなるかなぁ?」
 テラコッタ瓦の屋根の上で、少年が呟く。鼻先に垂れた金の髪を風が揺らして、その奥に隠れた双眸が地上を見下ろす。風に吹かれてなお、彼の両目は厚い前髪に隠されていた。さる王家の血をひいているという本人いわく、素顔が知れると面倒な問題になる、という理由で少年の顔の上半分はいつも前髪に覆われている。といっても、血を分けた兄を殺して家出してきた王子様の現在の家、イタリア随一の大マフィアボンゴレファミリーが誇る暗殺部隊の面々は、彼の素顔を知っていないこともない。兄弟殺しになんて頓着しない幹部と彼らのボスは、金髪の少年がどんな高貴な血をひいているかにもやはり関心はないらしかった。史上最年少、弱冠八歳で暗殺部隊の門戸を叩いた時にも、興味を向けられたのは年齢や血筋より、殺しの技術の方だった。強ければ貴人だろうと気違いだろうとかまわない。逆にいえば、弱ければいくら大層な肩書きをもっていても捨て置く。そういうところは彼がこの家と、そこに住まう者たち、いうなれば家族を気に入っている点のひとつだ。
「相変わらず物好きだねベル。わざわざタダ働きするなんて僕からしたら信じられないよ」
 ベルフェゴールと同じようにざらりとした素焼きの屋根に立ち、甲高い声で言うのはフードを被った赤ん坊だ。目深に引き下ろしたフードの中はやはり見えない。赤ん坊の体に見合わず、まるで子供に話しかけるようにベルに声をかけた赤ん坊は、実際体こそ小さくとも生きてきた年数は彼を上回っていた。
「働いてんじゃなくて趣味だよ趣味。マーモンにだって趣味のひとつくらい…あー…札束数えたり預金残高見たり…?」
「分かってるじゃないか。個人的に好きなものっていったらやっぱりお金だね。といっても今はユーロもドルもあてにならないから、実物資産の方が良いんだけど」
「王子にはその方がわかんなーい。そりゃお金はあっても困らないけどさぁ、ただの手段だし。真珠とか宝石ならまだキラキラしてて綺麗だから良いけど」
 顔の上半分が見えていないけれど、しかし頬にはまだ丸い曲線を残した少年と赤ん坊。月も高くなった夜更けには似つかわしくない組み合わせだ。もちろん本人たちはそんなこと少しも気にせず、細い路地が入り組んで巨大な迷路のように見える街を眺めている。
「フン、君に分かってもらおうなんて思ってないさ。それよりも準備運動に時間かけすぎて本番でミスしないでよね。僕までボスに怒られるのは御免だよ」
「王子がそんなヘマするワケないじゃん。お?そろそろかな?」
 目線の先には数人の人影。ひとつは街の外に向かって細い路地を足早に行き、他のものはそれを囲むようにじわじわと輪を縮めている。まだそれぞれの影は出会っていないけれど、もうあと数十秒でお互いに顔を合わせることになるだろう。タイミングを計って、というよりも、楽しみなことを目の前に子供が急いて足を踏み鳴らすように、ベルが爪先を鳴らす。ぽっこりと丸みを帯びた白いブーツの先が屋根を叩き、夜の暗闇の中でも浮き上がって見えるかのようだった。
「よん、さん、にー、いち、しゅっぱーつ!」
 オレンジ色の屋根瓦を叩いていたそれが、幾度目かにそのまま屋根を離れ宙に浮かぶ。少年が屋根から飛び降りたのだ。前を開けた上着が風を受けてふわりと膨らみ、ひるがえる裾はまるで踊るよう。冷たい風が頬を刺すけれど、胸の中はうきうきと温かい。王族の血をひく金髪の王子様とて、天使でもあるまいし宙に浮くことはできない。屋根を蹴った瞬間はまるで飛んでいるかのようだったけれど、実際には落下していっているだけだ。だから立っていたよりも低い家の屋根に片足を付き、そこから貯水タンクに跳んで、出窓に置かれた植木鉢を落さないようすれすれの位置に爪先を乗せて勢いを殺し、音もたてずに地面に降り立つ。
「ししっナイスタイミーング」
 上から見ていた人影同士、上等そうなスーツを着込んだ中年男と、武器を構えた三人の男たちはちょうど今鉢合わせしたところで、そこへいきなり降りてきた少年は彼らの視線を一手に集めた。驚愕の眼差しが心地良くて、ベルは思わず笑みを浮かべた。耳まで裂けそうな口にピカピカと白く輝く歯が並んで、仕草そのものは無邪気だけれど状況を考えれば不気味だ。
「な…っなんだこのガキ。ここはてめーみてぇなガキが来るところじゃねぇぞ」
「そうそう、おうち帰ってマンマの乳でもしゃぶってな」
「黙って帰れば見逃してやらねぇこともないぞ」
 ごろつき然とした男たちが驚きを抑えこみ、鋭い視線とともにオートマチックの黒い銃を向けてくる。ブランドの名が大きく入ったベルトを見せつけるようにスーツを着崩した男らは、みな体格が良い。頬に大きな縫い跡がある者もいる。対するベルはというと、身長もまだ伸びきっていなければ骨組みも華奢だ。おとがいや首筋は細く、ボーダー柄のカットソーを着た胸にも胸板と呼べるほどの厚みはなかった。
「あは、王子のこと知らないんだ。さすが三流。目撃者は女でも子供でも殺せって習わなかったの?」
 ティアラを乗せた金髪に喪服と呼ばれる真っ黒な隊服。ついでにちらりとナイフまで見せてやったのに、それでも自分たちの相対している少年が誰なのか分かっていないらしい男たちに、ベルはますます笑みを深くする。殺し屋殺しの趣味のお陰で、ボンゴレの影であるヴァリアーを知らない町のチンピラからも、こんな態度をとられることはまずなくなってしまった。びくびく怯えられるのに飽きてきたから、たまにはこういうのも新鮮で良いな、と思ったのだ。少年が笑みを浮かべる傍らで、三人に回りこまれていた方の男が怯えた表情を見せる。自分の行く手を男たちに遮られた時よりももっと青ざめた顔で、黒い上着の背に目を見開いている。磨かれた革靴の底が石畳に擦れて小さく音をたてる。男が後ずさる。唇は浅く開いたままで、怯えたその目はまるで死神でも見たかのようだった。
「口のきき方がなってねぇガキめ!」
 見たところまだ成人を迎えてもいないだろう子供に三流呼ばわりされて腹を立てたらしい男が飛びかかってくる。
「あれ、怒っちゃった?図星?」
 闘牛よろしく男をひらりとかわしながら、ベルは小首を傾げた。いかにも無邪気な子供らしい仕草だ。けれどもその手には銀に光るナイフが握られている。
「生意気なガキは躾け直すしかねぇな」
 避けられてたたらを踏んだ男は、額に青筋を立てんばかりである。彼の手の中ではスタンガンが青白い光とバチリと乾いた音を爆ぜさせて、傍の二人もそれぞれに銃を構える。
「ピストルにナイフじゃ勝ち目なんかねぇだろ、ガキらしく泣き喚け!」
 いるよね銃が無敵だと思ってるやつって。ベルがそれを口に出すよりは先に、二人の男は引き金を引いた。寒空にパン!と破裂音が響き、けれど少年の体を撃ち抜くはずだった弾丸はまるで手品のように消えていた。華奢な少年はその場に立ったまま、かろうじて右手を少し動かしただけだ。
「な…っ!?」
「あ、勘違いしないでよね。助けたんじゃなくてまだお前に死なれたら困るだけだから」
 再び挑みかかってきた男の肩に飛び乗りながら、少年は自分が弾丸を避ければ代わりに当たっていただろう中年男に話しかける。それもご丁寧に顔ごと振り向いて。肩に飛び乗られた男は、少年の歯列と同じようにつるりと白く光るブーツを捕まえてスタンガンを当てようとするけれど、叶わず指先が空を切る。少年が男の肩を蹴ったと同時に、その首筋から血が噴きだした。
「が…っ!」
「ししっ!前言撤回、三流どころじゃなくって五流じゃん!」
 白いブーツに水玉模様のごとく真っ赤な血が飛び散る。首の血管を切り裂かれ、信じられないように目を見開いた男の体が傾いでいく。
「…っうわぁ!」
「お前は大人しくしてなって。用があるんだからさぁ」
 噴きだす血を見て走りだそうとした男の足に、鋭い痛みが走る。ナイフで刺された、そう思っておのれの足を見た男だが、そこにナイフは無かった。けれどスラックスのふくらはぎには切れ目が入り、肌からは血が流れている。切られた足を動かそうとすると、なにかに締め付けられているかのように痛む。構うものかと引っ張れば足を締めつけている何かが肉に食い込んで、ふくらはぎからはますます血が溢れる。どうにか逃げようと苦心する男の目の前で、少年は残る二人を次々に殺していった。身のこなしは曲芸師も顔負けで、さも楽しそうに浮かべる笑みはいっそ禍々しい。黒い上着の胸と腕に、死神の証があった。枝葉を茂らせ陽の光を存分に浴びて太く育った巨木の根元、決して日射しの届かない影。イタリアを統べる大ファミリーが持つ、たったの一滴で相手を死に至らしめる毒薬。ひらめく上着に刺繍されているのは、ヴァリアーの紋章だ。
「おまたせ」
「っ…ぐあっ!」
 肩が震え、歯の根が合わない。血飛沫の飛んだ頬で振り返った少年に向かって、男は銃を向ける。引き金を引く前に風を切って飛んできたナイフが、彼の人さし指を切り落とす。迷いのない、まるでもう何百回も繰り返してきたような動作だった。
「おっさんは俺のこと分かってるみたいだね」
 石畳を踏むブーツが、赤い。つい先ほどまでは白かったはずの靴だ。けれど今は返り血に染まって赤い靴に見える。街灯のほとんどない細い路地で、濡れたそれがてらてらと光る。
「それじゃ行こっか、お仲間のとこ。あ、言っとくけど隠したってお前の頭の中に直接聞くだけだから」
 石畳の上には男の右手の指が落ちていた。厚い爪をつけた指がちょうど半ば辺りから、まるでシュールな現代アートのように道端に落ちているのだ。掌は流れる血でぬめり、痛みで膝が震えた。それ以上少年の姿を見ていたくなくて、視線を逸らした男の視界で、なにか黒くて丸いものが揺れる。ふと気づけば、そこには赤ん坊が浮いていた。フードを目深に被って、表情の読めない赤ん坊。小さな体が夜の闇に溶け込むかのように揺れて、フードから覗く頬だけが白い。男が赤ん坊の姿に気づいた瞬間、その白い頬がずるりと崩れた。赤黒く変色し、肉が割れて細かく分かれた先が軟体動物のようにうねる。
「ひ…っ…」
 手と足の痛みさえも忘れた男が必死で頷く。もしここで首を横に振ったら、同業者ですら吐き気を催すという彼らの流儀で殺されるのだ。だがもしこの二人が見逃してくれれば、仲間の元に案内することで、自分にはもう抵抗する気も裏切る気もないのだと認めてくれれば。
「おっさんさぁ、どこに行くつもりだったの?」
「…トリノまで行って、そこからスイスに」
「ふぅん。スイスかぁ…スイスはチョコ美味いよね。ベルギーのも美味いけど」
 世間話をするように喋りながら少年は歩く。とてもつい先程大の男を三人も殺したとは思えない、ごく普通の所作だった。普通というよりも親しげとさえいえる。石畳に続く足跡が赤いだけで、足取りはまるでスキップでもするように軽やかで、背丈は男と頭ひとつ分ほども違うだろうか。
「ここが入り口だ。二つ隣の店の倉庫が裏口になってる」
血を流す足を引き摺りながら来た道を戻った男が、表通りから一本入った道に面したリカーショップの前で歩みを止めると、少年は再び笑った。
「ありがと」
「…あ…!」
 大きな口が三日月のようなアーチを作る。その表情のまま、少年が右手を動かす。男の喉が一直線に切り裂かれ、噴きだした血が放物線を描く。喉笛を裂かれて呼吸ができないまま倒れた男の目に、白いブーツのわずかに残っていた余白が新しい血の赤色に染まっていくさまが映った。霞む視界の中で、少年はまるで子供が水たまりで遊ぶように血だまりを踏み散らかす。
「またそんなにわざと汚して、君って本当に無駄が多いよね」
 甲高い赤ん坊の声が聞こえる。その声が遠く感じるのは、男の五感が失われつつあるからだ。
「だって白い靴とか白い服に赤い血って一番綺麗じゃん?兄貴殺した時に白いシャツに赤い血が染みてすっげぇ綺麗でさ。シャツは濡れたら動きにくくなるけど靴なら大丈夫だし。だから王子はずーっとコレ」
 少年の声音はやはり楽しげだった。もはやその姿さえ見えなくなった男の耳に、遠ざかる足音だけがかすかに聞こえていた。血で濡れたブーツは真っ赤に染まり、頼りない街灯の下でやはりてらてらと光っているのだった。