Assasin of the Opera サンプル




「う゛お゛ぉい!」

見た目と不釣り合いな声の質と大きさに、ご婦人方がいっせいに目を丸くしたのがわかる。趣向を凝らし贅を尽くした大ホワイエにひびくその声の、なんと似つかわしくないことだろう。

「ワインとか、いいのかぁ?」

だから口を開かせたくなかったのだ。ザンザスは、自分の眉間に皺が寄るのがはっきりとわかった。この大ホワイエはただのロビーではなく、社交場である。そして社交には、ワインやシャンパンがつきものだ。社交なんぞする気は更々ないが、しかし飲み物と軽食を売るワゴンに立ち止まったスクアーロが、そのまま前を歩くザンザスに声をかける。軽く首をかしげると、束ねた髪が照明を反射して絹糸のように光った。

映画に声がついた時、かつて無声映画時代に人気のあった俳優女優が、トーキー映画になってから声のイメージが違う、と人気が落ちたり、銀幕から遠ざけられたことがあった。まさにそのように、もしこれが無声映画ならそれなりだったろう光景が、彼の声が入ったせいで台無しだ。

「いらねぇ。黙ってろ」

誰だって、自分の持ち物を貶されるよりかは褒められる方が気分が良い。表立って罵倒されたりちやほやされなくとも、向けられる視線がどちらの意を含んでいるのかなど、簡単にわかることだ。自分のものが、他人の目を惹きつけているのは大変に愉快だ。それは女の子が自分のお人形やぬいぐるみを見せびらかし、男の子がプラモデルや武器を模したおもちゃを自慢するのと変わらない、単純な気持ちだ。加えて、正装して黙っていればまず一般人にはわからないだろうけれど、これは綺麗なお人形でも、プラスチックの弾が出るおもちゃでもない。正真正銘の実弾だ。それも威力はピストルやライフルの比ではない。ミサイルのレベルだ。左腕につけた剣を振りまわして人間の首や腹を真っ二つに分断し、目をぎらぎら輝かせながら、悪魔か獣のように唇の端が裂けそうな笑みを浮かべる姿を知っている者にとって、正装して黙っている彼の姿は珍しさを通りこして笑えてくる。バレエやオペラと同じ、まさしく虚構だ。本当の彼は、そんなものではない。その虚構に人目が集まるのだから、ザンザスは面白かった。自分の持ち物が他人に良く思われるのは、たとえ真実でなくてもやはり悪い気はしない。むしろ真実でないからこそ、気分が良いものだ。

なのにスクアーロときたら、たった一声で全部を崩してしまった。まるで舞台の上で、死の床にありながら恋人への愛を歌うプリマドンナの、幕間でピザに食らいつきトイレを済ませる姿を背景幕に映しだすかのような所業である。

「黙ってろ黙ってろって、オレは犬じゃねぇぞぉ」
「犬なら躾ができる分まだ良い」
「犬はオペラ座には入れねぇだろうがぁ」

結局のところ、やはりこうなるのだ。こうならなければ良い、とは思いつつも、こうなってしまうことは薄々わかっていた。ただの友達にしては少々近すぎる、肩が当たるような距離でまたスクアーロがザンザスの顔を覗きこむ。外では久しく見る、前髪を全部後ろに撫でつけあらわになった額の、すぐ下の眉間。そこに刻まれた皺を、手袋を嵌めた指先で押して伸ばそうとする。鼻先を一瞬、革と血のまざったにおいがかすめた。

「消えなくなるぜぇ…って、ずっと言ってるのにずっとやめねぇから、もう皺になっちまってる」
「誰のせいだと思ってるんだ」
「オレのせいだって言いてぇのか?」
「少なくとも今はな」

 かつては、焦がれても手に入らない椅子や、自分を置いていきぼりにした世界、何より、望む資格すらもたない自分の体、とにかくすべてが気に入らなくて、眉根を寄せずに済むことなんてほとんどなかった。母を、義父を、自分を、憎んでいたし恨んでいた。義父も、義父が選んだ極東の少年も、ずたずたに引き裂いてやりたかった。炎の赤は、血の赤だ。報われない思いに胸から血が流れ、あふれた血がてのひらから炎となった。それでどうして、眉間に皺のひとつも寄せずに生きていられようか。眉を顰めたってなにも変わらないけれど、だからといって笑っていられるほど前向きでもないし、割り切れてもいなかった。いまだって、完全に割り切れているかと問われれば、答えは否である。どうにも自分は諦めの悪い性分らしい。それはまだ自分の手に、ミサイルに匹敵する剣があるからかもしれない。

しかしながら、感情は時間という波によって、ドリフトグラスのごとく洗われていく。もとは鋭く尖って、ふれれば指を切るようなガラスのかけらが、波や砂に洗われるうちに色がかすみ、角を削られていく。やがて砂浜に流れ着いたそれは摩耗し、白みがかった色をした不思議な漂流物になっている。そんなガラスのように、感情もまた月日に流され洗われていくものだ。未練がないわけでも、割り切れたわけでもない。けれどもいまこの時、ザンザスはスクアーロの言動に対してのみ、眉を顰めていた。

「…ってことは、こいつはオレがあんたに付けた印ってことになるじゃねぇか。勿体ないけど、悪くねぇな」

「…くだらねぇ」

彼の眉間にますます深く皺が寄る。その隆起はまるで皮膚を山折りと谷折りに折ったかのようで、スクアーロはといえば、やはりそれをなんとか伸ばそうと指で眉根を撫でている。手袋越しに、ほのかにだが体温が伝わる右手を払い、ザンザスは客席の入口へ歩き出した。

「う゛お゛ぉい」

またこれだ。もはやいくら言ってもどうにもなるまい。溜め息を吐いて、彼は案内係にチケットを見せる。チケットに印字されているのはもちろん、個室から観劇するボックス席の番号だ。かなりわかりづらくはあるが自力でも辿りつける通常の客席と違い、ボックス席は案内係を伴ってでないと席に行くことができない。なぜなら、部屋のドアの外側にドアノブがないからだ。だから席のある部屋に入るには、案内係にそのドアを開けてもらうしかないのである。

「ボスさんよぉ」

部屋に入って、当たり前のようにザンザスの後ろにまわりコートに手をかけた男の声が、さきほどまでよりもわずかに低い。まるで興奮を、無理矢理に抑えこんでいるかのようだ。

「…」

腕を伸ばし、されるがままにコートを脱ぐザンザスは、気のない素振りで視線だけをちらりと男に寄こす。ともすればコートに着られるか、あるいは成金じみて下品になりがちな豪勢な毛皮だが、彼にはそれがよく似合っていた。

「血の臭いがするぜぇ。それに気色悪ィ気配がする。オレの気のせいじゃねぇと思うが…あんた、何を企んでやがるんだぁ?」

もはや日常と化している手慣れた所作でザンザスのコートを預かったスクアーロが、こちらはすでに脱いで腕にかけていた自分のコートと一緒に、備えつけのコートハンガーにかける。その足でふたたび歩み寄った彼が、耳元に唇を寄せて睦言のようにささやき問う。

「耳は駄目だが、鼻は良いみたいだな」
大ホワイエで聞いたよりも、ずっと良い声だ。
耳朶を吐息がかすめて、耳の中の細い管に普段よりも細い声が入りこむ。ひとつにまとめて、肩から前に流した長い髪が、ザンザスの着ている上着に擦れて、ごくごく小さな音をたてた。スクアーロが声を抑えていなければ、おそらく聞こえないだろうささやかな音だ。

「こんだけぷんぷん臭ってて分らなかったら、廃業でもした方がマシだぜ」
「お前が廃業なんてできるとは思わねぇな」
 血の臭いにこんなに興奮しているくせに。そこまでは口に出さず、ザンザスはただ面白そうに笑みを浮かべた。笑みといってもごくうすい、唇の両端をほんの少し上に持ち上げるだけのものだったが、それでも彼にしては大きな変化だ。
「腕が落ちてるのにいつまでもずるずる続けるなんてみっともねぇこと、御免だぁ」

歳をとって腕が落ちるどころか、動きも技もますます洗練されて化け物扱いされているくらいなのに、何を言っているのだろう。それこそ非現実の世界だ。
口に出した言葉とは裏腹に、表情はひとかけらの憂いも含んでいないことが、良い証拠である。肉体の盛りはたしかに二十代だっただろう。特にスクアーロの武器は長剣だ。長い鉄の刃を振りまわす戦い方には、ナイフや銃といった飛び道具を使った戦い方よりも、直接的に筋力が関係してくる。だけれどもちろん、剣は筋肉だけで振るうものではない。もともとさまざまな流派を潰し、無数の技を手に入れてきた彼だ。強くなることに欲深な彼の剣は、まるで流れる水のように、止まらず、褪せない。

「安心しろ」

口先で遊びでもするかのように、ザンザスはスクアーロの言葉に乗ってやった。彼の口元の笑みが、やっと傍から見てもはっきり分かるほどに深まる。階下からはオーケストラの調音の音が聞こえ、次いで、割れるような拍手の音がひびいた。舞台の幕が上がる。自分の耳元に唇を寄せていた男の腕を掴み、目の前に引き寄せたザンザスが言う。

「腕が鈍ったら廃業なんざする前に殺されるのがオチだ。その前に、俺が殺してやる」

言い終えるか否か、吐息がふれるほど近くにあった唇が近づき、まだ声の余韻をのこしていた彼の唇に重なった。合わさった唇が、冬の寒さのせいでかさついているのがわかる。それはザンザスが浮かべていたよりも大きな、いかにも嬉しそうな笑みの形を作っていた。まるで抑えきれないほどの喜びが、唇から溢れているかのようだ。

「最っ高」

唇をあわせたまま、スクアーロは感嘆の声をあげる。芯から骨抜きにされた、浮ついた声だ。舞台の上ではソプラノ歌手が歌いだし、弦楽器がその歌声を華やかに彩っている。女は、夫の浮気とみずからの不貞を、嘆きもせずあっけらかんと歌う。“若い羊飼いに夢中なの”と、そう歌う彼女ののびやかな高音が会場にひびきわたった。超音波と称したスクアーロは正しいだろう。軽やかなリズムに乗って劇は進む。

「ん…っ」

しかし舞台を見ないまま、それどころかバルコニー状に張り出した場所に並べられた椅子にすら座らないで、ふたりはキスを繰り返した。スクアーロの手がザンザスの背にまわり、たがいの体を密着させるように相手を引き寄せる。ザンザスは片手を壁について、壁と自分の体とでスクアーロを閉じこめるようにしていたけれど、こうも強く引き寄せられたらもう、閉じこめる意味なんてない。わかっていながら、ついやってしまうのは癖になっているからだ。

「は…、ん゛ん…」
「…っ…ふ…」

唇をあわせる角度を変えようとして、おたがいの高い鼻先がぶつかる。それがなんだか、欲求不満の高校生みたいで、ふたりともちいさく笑った。笑った拍子に今度は額がこつんと当たる。面白くなって、スクアーロはザンザスの唇に歯をたてる。自分とは違って厚みのあるそれが、食いちぎりたくなるくらい彼は好きだった。噛みつかれたザンザスは、少々強すぎる力でスクアーロの顎を掴んだ。それこそまるで、犬でも躾けるように顎を離させる。ちゃんと離したら、今度は喉を撫でてやった。
撫でられて心地良さそうに目を細めた男だが、しかしやはり彼は愛玩動物ではない。そんな可愛らしいものにはなれない。荒い吐息の中にはあきらかに、狩りの前の高揚がふくまれていた。

「がっつきやがって…」