最近、屋敷に黒猫が住み着いたようだ。
姿を見たのはスクアーロただ一人である。
そのスクアーロも、暗い場所できらりと光る二つの目を見た、だとか、足の横を擦り抜けていくのを感じた、だとかで、はっきりと正面からその猫を見たことはなかったし、もちろん触ったこともない。
鳴き声を聞いたこともなく、その猫の目が一体何色なのかも知らない。
スクアーロは紛れ込んだ猫に餌をやるような人間ではなかったし、大方ベルフェゴールが気紛れで買ったか拾ったかでもしたのかと聞いてみたが、彼は猫を見たことすらないという。餌をやったことなんかない。餌皿が置かれているのも見たことがなかったから、もしかして厨房で残り物でももらっているのかも知れない。
スクアーロはあまり深く考えなかった。これまでもベルが拾ってきた犬や猫が屋敷の中にいることはあった。
ベルはすぐに世話をしなくなって、皺寄せは部下や使用人にいっていたが、屋敷に連れて来られた動物達は大抵三か月もしない内に死んでしまう。その頃にはもう、ベルは自分が連れて来た動物のことなんてすっかり忘れていた。
ベルが連れて来たものではないと知れても、スクアーロは、別に猫が居ようが居まいがどうでも良くて、興味も関心もなく、好きでも嫌いでもなかったから、自分の部屋でその黒猫を見ても放っておいた。
いつも通りドアを閉めても、いつの間にか居なくなっているのが不思議だった。

(あ…)
ある夜には、どこから入り込んだのか、オッタビオの執務室に黒猫はいた。彼は潔癖症のきらいがある。動物は嫌いで、何の菌を持っているか知れない野良猫なんぞが部屋に居ようものなら、すぐさま部下に摘み出させる。その彼が何も言わず、まるで猫のことを気にせずにスクアーロに書類を差し出した。
「スクアーロ、聞いてるんですかスクアーロ」
「あ゛、ああ、聞いてるぜぇ。こんなの楽勝だぁ」
「なら良いですけど。君、上の空でしたよ」

スクアーロは何も言わずに、書類を掴み取って彼の部屋を後にする。猫はもう見当たらなかった。


またある夜には、猫はスクアーロの部屋にいた。スクアーロはベッドの上で体を丸めて、左腕を握り締めていた。
斬り落とした筈の左手が燃えるように熱くて、凍り付けにされたように痛かった。痛みが指先からびりびりと腕を通って脳を焼いて、思考回路が焼き千切れてしまいそうだった。

「う゛…ぅ、く…っ」

噛み締めた唇は血の気をなくして白く、乾いて、皮が捲くれていた。存在しない左手が痛む。

「は…っ、ァ……」

うずくまって、永遠に続くのではないかと思わせるような痛みに歯を軋ませるスクアーロの、紗のかかったような視界に黒い小さな影が映った。影は正面を向いて、スクアーロの方を見ていた。けれども、スクアーロの目には涙が溜まって、痛みでガンガンと頭が鳴って、その姿は、猫のような形をした影にしか見えない。影が小さく鳴く。にゃお、と、痛みの一色で塗りつぶされた頭の中に、小動物にしては低い声が届く。

「あ゛…!」

神経を焼き切るような痛みに彼がぎゅうと目を閉じて、また瞼を開くと、影はもう視界の中に居なかった。息も絶え絶えに部屋の中を見回しても、その姿は見つけられない。ドアは閉まったままだが、猫はどこかに行ってしまったらしい。


それから数年後、スクアーロはまた猫を見た。今度は彼は、彼のものではないベッドに仰向けになって、ベッドの端から頭と長い髪とを床に向かって垂らしていた。長い長い髪の毛は、銀色の滝のように床へ向かって降り注いで、絨毯の上に泉を作っている。スクアーロの体には黒髪の、体中に傷痕のある男が跨っていた。

「ん゛…ぁ…ッは…!」

鼻血が鼻の奥に流れてくるから、口を開けていなくては呼吸ができない。口を開けば、声が出る。反らされた喉笛はひっきりなしに鳴って、掠れた音を奏でた。逆しまの世界では体の内側を押し広げられる苦しさと、覚えてしまった快楽がぐちゃぐちゃに混ぜ合わされて、どっちがどっちなのかもう分からない。ぶれる視界の中に、いつの間にか黒い猫が居た。
いつも黒い影であったり、小さな鳴き声であったり、あるいは光る目玉であったりする猫の姿が、今日ははっきりと見えた。猫は黒くて小さくて、瞳が赤かった。猫にも赤い目があるのか。黒い毛並みに赤い目なんて、まるで……
「よそ見すんじゃねぇ」

唐突に、前髪を引っ掴んで持ち上げられる。血の味が口の中に落ちてくる。頭に上ってしまった血も一緒に降りてきて、一瞬視界が暗くなる。掴んだ髪を手綱のようにして引き寄せられ、鼻の下にこびりついた血を舐められた。

「不味い」
文句を言うザンザスが、今度はスクアーロの唇を齧る。目を閉じる前にスクアーロがそうっと後ろを見ると、もう猫は居なくなっていた。それからというもの、その猫の姿を見ることはなくなった。