薄暗い部屋の中で、何百もの人間の息遣いが、静かに、静かに、けれど確かに響いている。
ランプの灯りに似た照明は、部屋の隅の影を色濃く、まるで煮詰めたようなとろりとした黒色に映す。
黒い三つ揃えに、深い赤色のシャツを着込んだスクアーロは、背中に幹部たちを従えて、ボンゴレファミリー十代目継承式の最前列、ファミリー内部の人間が並ぶ場所へと立っていた。
屠った人間の血が染み込んだかのような、暗赤色の絨毯が扉に向かって真っ直ぐに敷かれ、その上を、まだあどけない面立ちをした十代の少年らが歩いてくる。彼らの歩く先には、先代のドン・ボンゴレ、つまり九代目と、その守護者達が並んでいる。守護者が恭しく持っているクッションの上には、小さな箱がある。一目で長い年月を重ねてきたと分かる、古びた、しかし緻密な細工を施され、鈍い金色に光る箱だ。
スクアーロの目の前を、沢田綱吉が通る。獄寺隼人が誇らしそうに、雲雀恭弥が猫科の動物のように足音をたてずに、歩く。未来での戦いを経た彼らは、それでもまだ、スクアーロからすれば、岸の向こう側に居た。広くて深い、水をいっぱいに湛え滔々と流れる川で隔てられた場所だ。

子供に近しい骨組みは華奢で、目の前を通った沢田綱吉からなんて、ミルクの匂いだってしそうだった。飛び掛かって押さえつけて、首の骨をぽっきり折ってやったら一体どんなことになるだろうか。流れ落ちる長い髪の毛で隠された唇の端で、ほんの少しだけ、スクアーロは笑う。詮無いことだった。漸く、支えがあれば立って歩けるようになった体でだって、目の前の少年一人を殺すくらいのことはできる。根拠のない自信ではない。自分が飛び掛かって、彼の首に腕を絡めて、それを折るのに必要な時間と、自分に向けて銃の引き金が引かれて、弾が当たるまでの時間を計算した結果だ。不可能、可能で言えば、可能なのだ。可能だけれど、そこに意味はない。
傍らに立ったベルフェゴールが、ちらりとスクアーロを見上げる。薄い唇に乗った淡い笑みを見て、彼はスクアーロが、思ったことを実行に移しやしないかと心配しているのだ。大丈夫だ、と言う代わりに、スクアーロは、分厚い前髪で隠されて見えない彼の目の辺りに視線をやった。動かすと、縫合されてまだ癒え切っていない、目の下の傷がぴりりと引き攣れて痛んだ。この瞬間にだって膝を付いてしまいそうなくらいに、スクアーロの体は、ぼろぼろだった。骨が折れたままの、縫い痕が生々しく残る腹にコルセットを嵌めて、足にはギプスを嵌めて、杖を付いて彼は漸く歩いている。ベルには、革の手袋に包まれた手が強く杖の柄を掴み、キュウと鳴る音が聞こえていた。効かない痛み止めの所為か、それとも目の前の情景にか、端に傷が残る唇が、青く色をなくしているさまも見える。
頬にある、真新しい紫色の痣も。


ヴァリアーに、十代目がドン・ボンゴレを継ぎ、“罪”を引き継ぐ継承式への出席が命じられたのは、一週間前のことだ。その前日に、彼らは未来での出来事を知った。臓腑を焼かれた傷が癒えはじめ、ベッドで体を起こせるようになったザンザスが、呆然としたような、諦めたような、絶望したような、まるで、行く先に地面の無い崖へと突き落とされた瞬間のような表情をした。赤い目を丸く開いて、唇をわななかせた彼は、それきり口を閉ざし、目蓋を伏せた。継承式への出席を命じられても、ただ静かに首を振る。肩を掴まれ大声で詰問されても、ボンゴレ九代目からの正式な書状を手に、命令に背けば、長であるザンザスを筆頭に、ヴァリアー幹部、また幹部に次ぐ精鋭部隊の全員を反逆者として処刑する旨を伝えられても、己の肩を掴む手を払うことさえなかった。我慢できずに、レヴィが使いの手を捻り上げる。置いて行かれた書状には、継承式へ出席すれば、まず、命の保障はする、という 内容が書かれていた。
ゴーラ・モスカの内部で使われていた装置を応用した、死ぬ気の炎を吸収する装置を付けられたザンザスが、もういい、と言う。窓のない、白くて清潔なだけの病室で、彼の部屋のベッドより狭くて薄っぺらいベッドに寝かされて、もういい、と、小さく呟く。何も望まない。何も要らない。もう歩かない。何もかもを厭うて、諦め、首を振る。
十六の少年のか細い肩を見た気がして、スクアーロは言った。


「継承式には、オレが行ってくる」

「ボスが出席されないと仰っているのに何のつもりだ貴様!命が惜しくなったか!」


途端に激昂したレヴィが怒鳴り、スクアーロの頬を打った。車椅子に乗ったスクアーロは避けることができずに真正面から拳を受け、車椅子ごと倒れそうになる。それを引き留め、レヴィはもう一発、と拳を構える。赤い目で、ザンザスがそのさまをただ見下ろす。


「惜しいの前にお前がスク殺す気かってーの」

構えた拳が振るわれる前に、ベルがレヴィの臑を蹴り上げて、馬鹿にしたように鼻を鳴らした。傾いだ車椅子を元に戻して、向き直る。


「貴様…っお前もボスのご意向より自分の命か!」
「バッカじゃないの、そんなんじゃねーよ。ってか王子に勝てると思ってんの?ししっ」


薄く研ぎ澄まされたナイフを、扇のように指の間に構えた少年が、彼と比べてみれば巨躯といって良い男を見上げ、真っ白な歯を見せ付けるように笑う。殺気が、まるで空気に細かく砕かれたガラスの破片が混ぜ込まれたかのごとく、ざらざらと肌を引っ掻く。崩されかけた体勢を立て直し、レヴィは金髪の少年を睨み据えた。


「んもぅっ!何してるの貴方たち!」

使いの者を見送って、部屋に戻ってきたルッスーリアが、子供を叱りつけるような具合で声をあげた。針でつつけば破裂しそうに張り詰めていた空気が緩み、解けるのを感じ、スクアーロは息を吐いた。そこで漸く、自分が今まで息を詰めていたことを知った。


ベルフェゴールとマーモンを伴って、継承式へは自分が出席すると言っても、ザンザスは、スクアーロに対して行くなと言わなかった。行け、とも言ってはいないが、彼はいつだって、ザンザスの沈黙を自分に都合が良いように判断した。スクアーロの都合とはつまり、ザンザスにとって利があるかということだった。
いつだって、スクアーロは、ザンザスの為になると思ったことを実行してきた。それをザンザス本人が望むと、望まざるとにかかわらず、彼の為になると思えば泥水でも啜れたし、他人の靴だって舐められる。
今だってそうだ。八年の月日をかけて伸ばされた髪を、床に付けて跪くことだって、ザンザスの命が助かるというのならば、スクアーロには容易いことだった。命が惜しいのかと謗られても、ザンザスの目が、燃える火のない、ただ赤いだけの目が彼を見ても、ザンザスの命が助けられるというのなら、継承式の最前列で、ザンザスではない人間が十代目になるさまを見ることにだって耐えられる。まるで、踏み絵を踏むような行いだった。かつての、目の前の少年達と同じ年頃の自分は、十代目の玉座が叶わないのなら、死んだって構わないとさえ思っていた。いや、クーデターの失敗は死を意味していたのだ。死んで当然だったのだ。だから、ザンザスが玉座に座り、その隣に己が立てないのならば、自分達は死ぬのだと、そう信じていた。他人がその座に就くところなんて、想像してさえ吐き気がした。そんな情景を見るくらいなら、目が潰れた方がマシだと思っていた。
けれども、今、こうして、スクアーロは居並ぶ人々の最前に居る。長こそ来てはいないが、剣帝殺しとして名の知れたスクアーロや、プリンス・ザ・リッパーの異名を取るベルの姿は、参列者達を威圧して、ヴァリアーという、ボンゴレの誇る精鋭部隊が十代目にこうべを垂れていることを示して、極東の小柄な少年の名を高めるだろう。
そうまでして、スクアーロは守りたかった。自分の命でなく、矜持でなく、自らの主の命を。
全てを投げ出し、憎む心さえも放り出してしまったかのようなザンザスに、それでも、生きていて欲しい、彼の体に温かな血が巡っていて欲しいと、思ってしまった。ザンザスはそんなこと、一言だって言ってやしないのに。もういい、と言っているのに。それでも、どうしても、十年経っても彼の、自分達の夢が叶わないことを知っても、もしかしたらそれが酷いことかも知れなくても、スクアーロは、ザンザスに生きて居て欲しいと思った。いつだって、スクアーロは彼を救えなかった。目の前で凍りついていくさまを、見詰めていることしかできなかった。手を伸ばすことさえ、叶わなかった。だから、例えそれが酷い傲慢であっても、今度こそ手を伸ばしたかったのだ。


痛みに耐えるように瞑った目蓋を、スクアーロはゆっくりと持ち上げる。自分の怪我や後ろに並ぶ二人ではなく、この光景こそが幻であったら良いのに、だなんて、夢見がちなことは思わない。
これは現実なのだ。
骨の軋むような痛みが、彼にそれを告げる。
かつて夢見た光景が、目の前で、そっくりと人を入れ替えて行われていく。
彼の背中で、八年の業が揺れもせずに流れている。