風の音がきこえる。
皺枯れた老人の腕のように伸びた木々の枝を揺らし、咲き始めのサクラの花びらを散らす風の音が。
水面を波立たせブロックのように立ち並んだ高層ビルをなぎ倒すかのように吹きつける、その唸り声が。
吹きつける風に髪が巻き上げられて、制服の襟がはためく。痛いほどの勢いで、頬を叩かれる。
部屋の中にいるというのに、スペルビ・スクアーロはそんな風の音を、匂いを、感じていた。
真っ暗な空には星も出ず、厚い雲の影ばかりが重たく影を作りだしている。星のかわりにガラスに映っているのはビルの窓から漏れ出すまばらな明かりと、道を走る車のテールランプだ。時間はもうすぐ日付が変わる頃だけれど、大きな道路を走る車はまだ途切れない。間隔をひろく空けながらも、前の車を追いかけるように後続の車が流れてくる。
地上数十メートルの高さから見ればオモチャのようなそのさまが、目を瞑ったままの彼にはたしかに見えていた。
部屋の中のことだってすべてわかる。
衣擦れも寝息もひとつだって聞き落としはしない。
完全に照明を落とした部屋のどこに何があるか、ドアからソファまで何秒かかるか、窓を割られたらどう動けば良いか、すべてがその瞬間に動きだせるよう頭ではなく体が知っている。
頭で考える前に、手足が勝手に動きだす。立ち上がり剣を構えて斬り伏せる。ソファを蹴りあげザンザスの前に立つ。頭なんか介するよりも、この手足はもっとずっと素直で優秀だ。この膝は地面につきたがろうとしないし、この腕は下ろされるのを嫌う。膝をつくのも腕を下ろすのも、向かい立つ敵が地面に倒れてからだ。
そんな手足はいま、ただ静かに折りたたまれている。
次に立ち上がったときに思うさま動かせるよう、体は懸命に休んでいる。
倒れないことはもちろん、どんな状況でも眠って体力を回復できることもまた、自分たちのような者にとっては大切なことだ。
上手く休むことができないことは、上手く戦えないことと等しい。だから男は低く高くひびく風の音を聞きながら、草木のように静かに眠っている。切り裂かれた肌の痛みを忘れ、戦いの興奮をまるで火を消すように抑えて。
主の足元に腰をおろし、いつでも飛び出せるように手足を縮めながら。
「男前じゃねぇかぁ」
ザンザスの眼下には、さきほど包帯を巻きながらそう言った男のちいさな頭があった。
男は長い手足を折りたたんでうずくまり、剣を抱えている。
自分の髪とよく似た色の長剣を抱えた彼は、普段の様子が嘘のように静かに目を閉じていた。
ちいさな頭に痩せた肩、長い髪の隙間からほんのわずかに、青白い首筋がのぞいている。
黒い制服の背を覆うかのような髪はそのまま床の上にわだかまり、幾束かは彼の背中とソファのあいだに挟まれていた。
この男も自分も、体を横たえ手足を伸ばして眠ることなどできない。
スクアーロはソファの下で膝をかかえていたし、自分の足の間には冷たい銃が置かれている。
折りたたんだ手足は、まさに縮めたバネのようなものだ。動くべき時にすぐに伸ばせるよう備えている。
それはもはや身に染みついた習性だ。ライオンや豹が獲物に飛び掛るときにまず、体を丸めることと同じ。
獣のように、体を休めている。
膝の上に置いた手はまだすこしばかり痺れていた。改造された銃の威力が大きすぎて、まだその反動に慣れきらないのだ。
「てめぇこそ随分身軽そうだな」
松葉杖をついた男に言うと、彼は声を出さずに笑っていた。薄い唇から尖った歯がのぞき、皮膚が動いた拍子にじわりと頬に血がにじむ。淡い色しかもたない青灰色の目が、まるでボールを見せられた犬のように光っていた。
外では相変わらずびょおびょおと風が鳴っていた。
砂煙を巻き上げて嵐さえも起こしそうな強い風。夜空は厚い雲にかくされてどんよりと淀み、星のひとつさえも見えない。灰色の雲は、めまぐるしい速さで流れている。
咲き始めのサクラのほのかに甘い匂い。途切れずに走る車のガソリンの匂い。
防音ガラスの外の音も匂いも、たしかにザンザスのもとへ届いていた。
それに混じって、長い髪が床に擦れるかすかな音がした。 悪くない。
もう一度そう思って、彼は目を閉じる。