視界が、ハレーションを起こしそうだ。
ザンザスはそう思ってゆっくりとまばたきをする。
「ボス?」
じっとこちらを見るスクアーロのほの白いまなこが一層見開かれ、上下のまつげが震えた。もともと彼の虹彩には淡い色しかのっていなくて、ただでさえ白目との境目がわからないのだ。それなのに目を見開くのだからさらに白目の面積が増えて、ぽつねんと浮かんだ黒い瞳孔はますます小さく見え、余計に血の通った人間らしさがなくなってしまう。開いた唇にさえも色味はなくて、ちらりと見えた口の中だけがやっと赤い。
「痛むか」
血を拭う手を止めて、彼は今度は眉を顰めた。途端に目つきが悪くなる。自分だって他人のことをいえた人相でないのは重々承知していたけれど、それでもいいたくなるほど彼の目つきは悪い。まなじりは吊り上がり、瞳孔はやはり小さい。ほの青い虹彩が海の浅いところにも、曇り空にも似ている。
「いや」
仮に頷いたからといって、じゃあ暫くのあいだ安静に…という訳にもいくまい。いまはアルコバレーノの呪いを解く代理戦争の真っ只中、しかも思わぬ敵が乱入してきたお陰で戦えるのは自分と目の前のスクアーロ、それに呪いをかけられた張本人のマーモンだけという有様だ。それにもともと、この程度の痛みなど大したことはない。痛みとして数えるには、少々物足りないくらいのものですらある。だから最初から、頷くという選択肢は存在しないのであった。
スクアーロの手が再びそろりと動き出し、指先に挟まれたコットンが右目の縁を撫でていく。ツンとした消毒液の臭いがザンザスの鼻をつく。こびりついたまま固まってしまった血を拭っているのだ。一度乾いて固まった血が消毒液にじわりと溶かされ、白いコットンに赤茶けた色を移す。黒いまつげを撫でるように拭うと、ぱらぱらとした細かい粉が落ちた。ソファに座ったザンザスの、足のあいだに膝を付いて身を乗り出し、真剣そのものな表情で彼は手当てをしている。傍らには松葉杖が立てかけられ、傷を負った片足は曲げられずに伸ばしたままだ。
「開けられるかぁ?」
消毒液が蒸発していくせいで、拭われた目蓋がひやりと冷たい。鏡のない状況では自分の目がどうなっているかなどわからないが、血はきれいに拭きとられたのだろう。それでもなおも開けづらい右目の目蓋を、力を入れて開いてみる。視界がぼんやりと霞んで、まるで赤いセロハンでも透かしているように赤みを帯びる。ズキンと刺すような痛みが走って、思わず右目を眇めてしまう。空気に触れていると、目の表面がひりつくような感覚がした。
「ボス、やっぱり包帯で押さえちまった方が良い」
乗り出していた身を引いて、眉を顰めたスクアーロが言う。その顔さえも赤みがかって見える。片方の目だけで見た時には、あまりに近い距離で揺れるものだから眩しいくらいだった髪までもがぼやけて、赤いフィルターを重ねたように映っていた。赤茶色に汚れたコットンをローテーブルの上に置いた彼が、代わりに包帯を手に取る。斜め後ろに捩じった首に、はっきりとした筋が浮かんでいる。隊服の襟が少しばかり焦げて、頬や唇のそばには擦れたような傷があった。右と左の視界に差があるせいか、彼の動きがぶれて見える。包帯を掴んで振り返る、その時揺れた髪に、ザンザスは手を伸ばした。
「っ…」
少々強く掴みすぎたか。近づいたスクアーロの眉間には浅く皺が寄せられている。イタリアの水道水と違ってこちらの水が軟水なためか、妙に手触りの良い髪を握ったまま、ザンザスは動かない。おたがいの鼻先がぶつかりそうな、吐息が触れ合いそうな距離にスクアーロを引き寄せたままピタリと止まっている。なにも言わないし、なにもしようとしない。物も言わずただじっと、スクアーロを見ているだけだった。ピントが合っていないかのように霞んで赤みがかった、本当ならば曇天のように水色と灰色の混ざりあった彼の目を。
「…、…」
沈黙に耐えかねて、というよりもまるで引き寄せられるように、薄い唇が目の前の男の唇を塞いだ。
「ん゛」
包帯を片手に、もう片手ではザンザスの頬を包んで、彼は唇を合わせる。色味がなく薄っぺらい唇は温度さえもザンザスのそれよりも低く、重なると少し冷たい。けれどそこから、唇よりもはるかに熱い舌が這い出てきて、ぬるりと上下の唇の合わせ目をなぞる。舌先が小さな蛇のように上下の隙間に入りたがって、指先が耳のすぐ下を通り短い髪を撫でた。もはや視力は関係なく、近すぎる距離に焦点が合わなくなる。
「…は…」
強請るように舐める舌に応えて唇を開いてやると、すぐに柔らかく濡れたそれが口内に入ってきた。前歯の裏をなぞり、口蓋をかすめて更に奥へと潜ってくる。身を乗り出した彼の肩がザンザスの肩に触れて、少しだけ体重がかかる。ザンザスの背はわずかにソファを滑り、逆らおうとしない体がソファに沈んでいく。
ソファの向こうのベッドには、気絶したままのベルフェゴールたちが並んで寝ている。彼らはまだ起きてはいないようだけれど、ベッドの傍にはマーモンがいるはずだ。今から殺す標的の前、あるいはもう殺してしまった死体の前ならまだしも、同僚たちがいるところで、彼が身を乗り出しキスをするなんて珍しい。いや珍しいどころか、今までにあり得ないことだった。
スクアーロという男は、セックスなんぞなくても生きていけるような男なのだ。彼の欲望のほとんどは剣に向けられていて、三大欲求のひとつに数えられる性欲も、睡眠欲も薄い。食欲だって食べ物がふんだんにあるなら大食らいだけれど、なければないで平気な顔をしている。
そんな彼が執着するのは剣の他はザンザスのことだけで、その執着たるや我が身をも上回る。彼にボンゴレの正統後継者としての血が流れていないと知っても、マフィアになる覚悟すらない少年に負けても、そうして十年先にもやはり彼が十代目の座に座っていないことを知っても、それでもスクアーロの世界の中心はザンザスでしかなかった。彼の勝利のためならば、できないことはないとさえ思えた。腕も足も血の一滴さえも、彼のために使うと決めているのだ。
「ん…っ」
奥へ潜った舌がザンザスの舌に触れる。細い先端で横腹を擽り、くちゅりと音をたてて裏側の筋を辿る。頬を包んでいた指先にはまるで捕らえて離さないといわんばかりの力が籠っていて、長い髪がザンザスの膝を擽っていた。
セックスなんぞなくても生きていけるだろう男は、しかし今、セックスと同じくらいかそれ以上に興奮している。
自分では気づいていないのかも知れない。けれども、ザンザスはずっと知っていた。右目の目蓋を開ける前から、片方だけの目で見る遠近感の狂った世界で、ほの青い目に燐光のような灯がともっていることを。
燃え立つように濡れるように、その灯はスクアーロの目を輝かせていた。涙よりももっとずっと艶やかに、彼の目を濡らしているもの。白刃のごとく剣呑に、彼の目を燃やしているもの。それが見えたのは、復讐者たちと相対してからだった。
「オレが退がらせねぇ」
そう言った彼の目の中に、たしかにそれはともっていた。欲情に似たものが映る目で、彼はザンザスを見る。顔を覗きこみ、さも甲斐甲斐しく怪我の手当てをする。心配そうに細めた目には、やはり絶えずうすにび色の灯がともっているというのに。
退がらせねぇ、と、そう言ったのと同じ唇で、彼はザンザスにキスをする。舌が絡まり、わずかな吐息が洩れる。溜まる唾液を飲みこんで、ザンザスは彼の舌に軽く歯を立ててみた。途端にびくりと固まるが、力を込めるつもりはないらしいと知れるとそれは再び動き出す。味蕾の凹凸が擦れあって、くすぐったいようなむず痒いような感覚が背筋を撫でる。口内で絡みあう舌は重なり合い混じり合い、いっそどちらのものか分からなくなってしまいそうなくらいだ。甘く熱く、体の芯がぞくぞくと震えるような快感だ。
けれども二人は、キスをするだけの関係にはなれない。キスをしてセックスをして、それだけで済むような関係にはなれないし、なったこともない。スクアーロがいる限り、この髪が手の内にある限り、ザンザスの後ろに道はない。みっともなく引き退がる真似などしなくて済む。退くことは、できない。目の前に茨があろうと、轟々と音をたて炎が燃えていようと、前に進むことしかできない。
たとえその先がとっくに焼け野原になっていたとしても、戻ることなどできやしないのだ。無邪気な子供のように目を輝かせ、スクアーロは今走ってきたばかりの道を斬り落としてしまう。道はがらがらと音をたてて崩れ落ち、一歩でも後ろに下がろうものならば足を踏み外して奈落の底に真っ逆さまだ。
もとより退くつもりはない。矜持を捨てて生きるより、たとえ紛い物の矜持でも抱いて死ぬ方がまだ幸せだ。そう思っている。けれど。
「っ…は…」
互いを貪り合うようなキスは、細く短い唾液の糸とともに切れる。革の手袋に包まれた五指がザンザスの頬から離れて、唇の表面を拭うように舌が撫でた。開けようとすると痛む右目の目蓋を開くことを諦めて、彼は左目だけでスクアーロを見た。銀のまつげに縁取られた目蓋が開くと、水色とも灰色ともつかない淡い色をした目があらわれる。それはやはり、燃えているようにも濡れているようにも見えた。
「…包帯、巻くぞぉ」
ちいさく告げる彼の髪から手を離す。きつく掴まれていた髪がさらりと元のように流れるさまが、正面の窓ガラスにも映っていた。光を包んだように淡く艶めくそれは、雲母や真珠にも似ているだろうか。
真珠は、母貝となる貝の中に核となる異物を埋め込んで作られる。貝は体内に入ってきた異物で自分の体を傷つけられないように、柔らかな膜で幾重にも包んでいくのだ。ダイアモンドやルビーにサファイア、大地が何万年もかけて作りだした宝石たちと、真珠は違う。真珠は痛みの結晶だ。
やがてザンザスの右目は、包帯で覆われていく。スクアーロの包帯を巻く手つきは不慣れで、何度か巻きなおす羽目になった。けれども閉じた目蓋の上から包帯を重ねられて、光さえも感じなくなった右目は、ただ目を閉じている時よりも少し痛みが軽い気がする。遠近感の掴みづらい視界の中に、スクアーロただひとりが映っていた。青いほどに白い頬をして、長い髪をかすかに揺らして、彼は首を傾げる。
「きつすぎねぇかぁ?」
その目にともった灯と、部屋の明かりを映した髪とが狭い視界でいっぺんに揺れて、ふたたびハレーションを起こしそうになる。ザンザスはもう一度まばたきをした。それからごく浅く頷く。白刃のような目をして、真珠のような髪をして、スクアーロが嬉しそうに笑った。
きっとこの男に出会った時から、後ろに道などなかったのだ。