ぐわんぐわんと頭が揺れる。
便器の中の水は今吐き出した汚物で濁っていて、それを見たらまた吐き気がこみ上げてきた。

うぇ、と呻いて口を開くけれども、もう胃袋は空っぽらしく何も出てきはしない。

口の中に残る消化されかかっていた食物の味と酸っぱい臭いが気持ち悪く、胃酸で焼けた喉がひりひりと痛む。
身体の中のものをすべて吐ききってもまだ頭は揺れていて、床に付いていた膝を伸ばして立ち上がると足許がしっかりしない。


「XANXUS様?」


ノックと共に堅い樫の木のドアの向こうからかかる、心配そうな声。
世話係としてついている初老の女のもので彼女は九代目、つまり父親の身の回りに居たこともあるらしい。
たしか遠い血縁であるとか。

雲の上を歩むような不安定な足取りでザンザスと呼ばれた少年は一歩ずつゆっくりと洗面台に歩み寄り、口をゆすいでついでに顔も洗った。
冷たい水がずっと下を向いていて火照った肌に優しい。
身体の内は火照っているのに、彼のまだあどけなく柔らかな線を描く頬は蒼ざめて色がなかった。すべらかな皮膚の下に赤い血が流れていることなどないかのようだ。

「今出る」

白いシャツを汚していないのが幸いか。
鏡を見て上から二つ、外した釦を留めて緩めたネクタイをキュッと引く。
鍵を回してドアを開くと、髪にいくらか白いものの混じった、修道女のような丈の長いワンピースを着た女が立っていた。

「お体は大丈夫ですか?」
(何ておそろしい目)

重なる声。どちらも目の前の女のものだ。
一方は心配そうに抑えられ、もう一方は恐れ、厭うようである。
頭は相変わらず揺れ、両足もうまく床を踏みしめていられないけれどしかし、ザンザスにとってこの程度の声はもはや何の意味も持たない。
口に出している声以外の声、思念とでも呼ぶべきか。それをザンザスが聞き取れるようになったのは5歳の誕生日を迎える少し前だった。

はじめは声が聞こえても思念の内容は半分も分かっていなかったけれど、年を経るごとにその意味を理解できるようになって不快感は増し、10歳の誕生日を迎えた今日にはもう、自分への意識が多く集まるような場所では周りの思念にあてられてレストルームに駆け込むことが常となっていた。



食事もままならない程の不快感の代わりに得たのは、自分の身の危険を察知する力だ。

ザンザスは格式あるイタリアンマフィア、ボンゴレファミリーの九代目ドンの実子である。
常に二人以上の護衛を連れて護身用の銃を持ち歩いているし、当然、食事はスープからドルチェにいたるまで毒味をしなければならない。

それでも例えば使う予定の車に爆弾が仕掛けられていたことや、出された紅茶に薬が盛られていたことは数え切れない程ある。
そんな時にザンザスは他の誰が気付くよりも先に気付くのだ。頭の中が一瞬ひやりと冷たくなり、考えるよりも先に身体が動いてその場を飛び退り、あるいはティーカップをひっくり返す。
自分を狙う思念目がけて銃弾を放つこともあった。


このような常人にはありえない程の直感をマフィア界ではブラッド・オブ・ボンゴレ、超直感と呼ぶ。
超直感は初代ドン・ボンゴレの血縁だけに見られる能力で、父である9代目ドン・ボンゴレと共に母親もこれを有していたザンザスは一族の中でも極めて高い力を持っていた。
高い能力を持っているがゆえに、まるで性能の良すぎるレーダーのように自分の意志とは関係無く意識の中に入り込んでくる思念にザンザスはいつも苦しめられていた。
思念はその思いが強ければ強いほどザンザスの意識の中にも強く入ってくる。

ボンゴレを潰そうとしている者。
表向き長兄となっているエンリコや、次兄のフェデリコに付いていてザンザスを邪魔に思う者。
ザンザスの持つ炎の力を、すべてを焼き尽くす憤怒のそれを利用しようとする者。
炎よりも赤く血潮よりも暗い両目を忌む者、彼らの思念が語るその目の禁忌。
ザンザスは自分が知りたいとも、知りたくないとも思う前にそれらを知ってしまったし、同時にひとつひとつを知る度に自分の立っている足場が溶けていくような、寄る辺ない思いを抱くこととなった。




「お待ちしておりましたXANXUS様」


会場に入る前に二人の護衛が付く。この男達は確かにいざという時にはザンザスの盾となるだろう。九代目ドン・ボンゴレへの忠誠のために。
懐の拳銃を指先でたどり、開けられたドアから会場に入る。
一瞬の水を打ったような静けさのあと数百…千を超えるかも知れない視線が一斉にザンザスをとらえ、ざわ、と空気が騒がしく動き出す。
無数の声と声なき声である思念がザンザスに寄せられ、また吐気を催しそうになる。

眉根を寄せてこくりと唾液を飲み下す幼い息子を、九代目ドン・ボンゴレが柔和な笑みを浮かべてパーティ会場の中央へ招いた。
金色の甘い香気を弾けさせるシャンパングラスを手ずからそのちいさな手へ。
Buon Compleannoは済ませたから、今度はあの大唱和を聞かなくて済む。それだけが救いだった。あの声も、あの思念も耐えようがない程うるさい。歓声めいた声には欲望ばかりが込められている。そもそも、自分の誕生日を祝う言葉が自分の誕生日を祝う気持ちと共に唱えられることなどないと知ったのはいくつの時だろうか。

そうやって目の前のことを考えないようにしているザンザスに、大人たちは精一杯の笑顔で歩み寄り祝辞を述べた。ザンザスにはそれがまるで呪いの言葉のように聞こえる。いっそ男の腕に絡んだ女の、気のない白いかんばせと面倒臭いとだけ呟く思念の方がどれだけ気持ちの良いことか。いやに喉が渇いていくつも杯を重ねた気がする。
いくら甘いシャンパンとはいえ、それ自体は大人が呑むものと変わらないアルコールだ。何杯も呑めば酔いが回ることは分かっていたし、ザンザスは酒に飲まれるようなことを好む質ではない。けれど疲弊した精神と空っぽの胃は、ザンザスが思っていたよりも早く限界を迎えた。

視界がぶれて、回りだす。

人の顔は目も鼻も口も刻まれた皺も一緒くたになってしまうし、ドレスもカーテンも区別がつかない。思念が痛い程頭の中に入ってきてザンザス自身の思考を追い出しているようだ。両足が踏むのは雲なんてものではない。ひたすらに沈みゆくぬかるみと、固い石畳が目まぐるしく入れ替わる空の上だ。
シャンデリアだけがきらきらと、鱗粉のような光をあたりにまき散らしている。

まるで地獄だ、と、思う間にザンザスの身体は倒れた。






――― ボス、ボス、XANXUS?

耳慣れた声で現実に引き戻された。
見渡すとそこはかつてザンザスが地獄と思ったボンゴレファミリー総本部のパーティ会場である。
「アンタらしくねぇな、ボーッとするなんて」
あの時に見たシャンデリアは今もザンザスの頭上に吊され、ほとんど変わらない明るさで会場を照らしていた。
違うとすればその光が自分の傍らでもう一度反射することか。


「見ろよボス」
黒い手袋がただでさえ息の詰まる、襟元にぴしりと締められたネクタイを引っ張るから仕返しによく磨かれた革靴を思い切り踵で踏んづけてやった。
いてぇ、と喚いてザンザスの足下から自身の足を引き抜いたスクアーロは年若き十代目ドン・ボンゴレに視線を向け直してツナヨシの奴、手震えてるぜぇ、と、笑う。

そうして、十代目ドン・ボンゴレになり得なかった禁忌の子XANXUSの盾であり剣である彼はその隣で銀色の光を放つのだ。








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Buon Compleanno!(ブオンコンプレアンノ)→HappyBirthday!