お前がそれを望むなら、オレはこの髪に香油を染み込ませて、マグダラのマリアみたいにお前の全身を清めよう。
足の先から指の間、胸も鎖骨のくぼみも、背中の翼の名残りだってこの髪でくまなくぬぐってやる。
スペルビ・スクアーロは目の前の光景に気が遠くなった。いま彼のただ一人の主は病院のベッドの上で全身を拘束され、両手の指ほどものコードとチューブに繋がれているのだった。
焼死体となる覚悟を決め点滴のパックを吊すスタンドを支えにしないと歩くことさえできない体で自分の部屋の外にいた者とザンザスの部屋の前に立っていた者、ふたりの見張りを鳩尾に金属でできた左手を叩き込んで気絶させ
やっとの思いで彼の部屋にたどり着いたというのに。何ということだ、ジーザスクライスト!
みどり色の光線がえがくザンザスの拍動はしかしスクアーロにはほとんど意味はなく、むしろ生きているのに目を開けない、という既視感がスクアーロの視界を歪ませた。
真っ白なベッドは薄く曇った氷に似ていたし、ザンザスの顔には八年前についた火傷の跡があった。窓さえない白い壁ばかりの部屋もあの場所と同じだ。
違うのは消毒液の匂いと、その先にある体温だろうか。
それでも目の前に氷が見える訳でもないのに立ちつくしているのは、本当に触れられるのか、恐れているからだった。スクアーロの右手は今でも溶けない氷の、あの冷たさを覚えている。
手袋の中でじわりと右手が汗をかき、スタンドの柄からすべりそうになる。音をたてるのを避けてベッドの傍にあったスリッパを履かず、裸のままの足が震える。吐く息が震える。なによりも心が震えていた。
けれども。
けれどもスクアーロは足を踏み出した。打撃を与えただけの見張りはすぐに起きてしまうだろう。そして自分を取り押さえ拘束するだろう。それならば時間などない。怖じ気づいている時間など。
足がもつれた所為でスタンドの足をひっかける。車輪がすべり、前のめりに転びそうになる。たたらを踏んで持ちこたえると、腕から針が抜けていた。
黄味がかった液がぽたぽたとリノリウムの床に垂れ、それをそのままに前へ進んだ。
白い病院着を着て長い髪を揺らしながらよろよろと歩くスクアーロは、傍目から見たら亡霊のように見えたかも知れない。スタンドはとうに床に転がっていた。
ようやくたどり着いたベッドの柵に縋りついて体を支え、けれど触れるのをためらう。
どこから触れば良いのか分からなかった。
触れるのはどこでも良かった。触れられるのなら、体温を感じられるのならそれで満足できる気がしていた。
けれどザンザスの体は毛布ごと拘束されている上にその毛布の中に何本ものコードとチューブが潜り込んでいるのだ。そんな隔たりに触れるのはもう御免だった。
だからキスをした。
毛布から出ているあまり血の気がない顔さえも、その殆どが古い火傷と新しくできた傷で覆われていてスクアーロの指を固まらせた。そうして傷のない場所を探して行きついたのが上唇だったのだ。
柵に両手をついたまま体を折り曲げて乾いた唇を食む。いくらか鮫に持って行かれてざんばらになった髪が光を遮る。傷の走る下唇には触れないように、できるだけ軽く自分の唇で挟んで潤すように舌をつけた。
かさついて、けれども確かに触れることのできたぬくもりに鼻の奥がツンと痛くなり暗い視界が更に歪んだ。体を折り曲げたために縫い合わせた皮膚が負荷に耐えきれず、腹の辺りの包帯が生暖かく濡れる。
自分はまた彼をこんなにもぼろぼろにしてしまった、と、臓腑が締め付けられるような心地を味わうと共にこうして彼に触れられる歓喜に叫び出したくなった。
さわれる。暖かい。
ただこの二つのことがスクアーロの胸をぐちゃぐちゃに掻き回し、そしてじんわりと温もらせた。
と、それまで寝息さえ耳を澄まさなければ聞こえなかったザンザスのまつげが震えた。冷たい炎に炙られて、とても短くなってしまったまつげだ。スクアーロはこれの本当の長さを知っていた。
触れていた唇がかすかに動き、息を吐き出す。吐息はこんなにも暖かい。
折り曲げていた体を元に戻して見守ると、固く閉じられていた瞼がほころび、どこかぼんやりとした瞳が現れる。いつもその瞳に灯されていた灼熱の炎が穏やかなのは、薬のせいだろう。
前に永い眠りから覚めた時傍に居られなかったスクアーロが、今度はすぐ傍にいるのを見つけてやっと焦点が定まる。ひらいた唇は掠れた息しか吐き出せなかった。
そこでスクアーロの視界は途切れた。
目が覚めた時にはすでに日は高く昇り、今度は自分の体にザンザスの部屋で見たような拘束具が取り付けられていた。
誰も自分が見張りを倒してまでザンザスの元に行くとは思っていなかったそうだ。見くびられている。そう思った。同時に下手を打った、とも思った。
これでしばらくはザンザスと顔を合わせられない。自分はまた死に損なった。
マリアになって復活を祝うよりも、十字架を代わりに背負いゴルゴダの丘に登りたい。神の子でも救世主でもないことは分かっていたがそんな風に思った。マリアなんて気色の悪い考えも、薬のせいにしよう。
ザンザスは彼が目覚める前にしたキスを感じていただろうか。あんなにも穏やかに唇が触れたのはきっと、八年ぶりだ。八年ぶり、という感覚を持っているのは自分だけかも知れないけれど。
スクアーロの唇には、右手に残る溶けない氷の冷たさと同じように確かなぬくもりが残っていた。
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