小説「彼女からのメッセージ(前編)」

 

 いなくなるもの。まだ続くもの。その違いは何だろうか?
 考えるまでもない。わかっている。
「変わらないな、ここは」
 彼の肌を包む空気。自分の体をなで、通りすぎていく風。木々の間をすり抜け体の部分部分を照らす光。
 どれもがどの自然の風景にあるものだ。でも――
(違う。ここは違うんだ。私にとってだけだけどね)
 彼は別に耳を澄ましているわけでもなく、また日光浴を楽しんでいるわけでもなく、目を閉じてそこにいた。
 しばらくして彼は目を開いた。
 彼の目に彼が今いる場所の風景が映る。
 光は少ない。あたりに生い茂る大きな木々が不完全なカーテンとなって光を阻んでいる。
 だが元々光は少ないのだ。なぜなら今は夜なのだから。
 何が変わったのだろう。あの時と、今とでは。
 わかっている。全部わかっているんだ。でも彼は確認したかった。自分があの時得たものを。失ったものを。
 いや、その他にも確認したいものがある。うまく言えないが。
 深呼吸をする。ここの空気が彼の肺へと入っていく。澄んだ空気が、いやここの空気が彼をより穏やかで、しかしシャープな気持ちにしていく。深呼吸を終えた後、彼は地面を見た。
 彼の視線がさまよい、ある一点で止まる。そこには、その土には何かが埋められたような跡が見られた。
 彼はそこを見、自分の手のひらを見た。閉じて、また開かせる。そして彼は手のひらを自分の胸にそっと添えた。そのままの状態で埋められた跡を見つめる。やがて彼はため息をついた。
 ここはどこなのだろう?
 考えるまでもない。
(聖域だ。私の、彼女の、もっともプライベートな、聖域だ)
 そこはもういないものと居続けるものとが交流するプライベートな聖域。
(本当にそうなんだろうか?)
 自分の対する皮肉を込め、彼は心の中でそうごちた。
 聖域なんて大げさだ。だってそれはただの、ただそれが起こっただけの場所なのだから。
 満月が輝く夜に、彼はそこにいる。黒いシャツに紺色のジーパン。それに黒い上着。光とはかけ離れた色のものばかりを着こんでいる。だがそこで輝いているものがある。
 彼の瞳だ。いや、瞳だけでなく、彼も輝いていた。もちろん発光していたという意味ではないが。
 彼はもうしばらくそこにいたが踵を返しそこから立ち去ろうとしてそのプライベートな聖域を後にした。
 そしてある物を取り出す。それはリスのキーホルダーだった。
(私は誰かさんほどしっかりしてないから、未練が残っている。まあいいだろう? だって私は君じゃないから。いつかこのキーホルダーと一緒に墓に入ってしまっても恨みはしないよね?)
 彼は後ろにそう告げた。もういないものと居続けるものとの、過去と現在と未来の交流点に。彼女に。
 そして歩いてゆく。どこへ? 決まっている。それは――
 続いてゆくもの。自らをそう分類した者の名は菊川英樹という。
 続いてゆくもの――彼は敢えてここではそれを考えずにそこを離れていった。




 静かな朝。彼しかいない家で、彼は心地よい気持ちでいた。何があったというわけでもない。
 ぶっちゃけて言うと、寝起きがよかったのだ。
(生活態度をちゃんとしていると良いところはこれに尽きるな)
 他にも得するところはあるだろうが彼にとってはそれが一番特だと感じた。
 ここは彼の家である。彼は今15歳。彼が自分名義の家を持っているわけがない。
 伯父――母親の兄のことだが――名義の家だ。
 だが住んでいるのは彼だけであり、伯父はちゃんと自分のもう一つの家に住んでいる。彼は伯父の別宅に住んでいるのだ。
 両親はいない。思い出すのも嫌気と懐かしい気持ち、沸騰したヘドロのような怒り、やるせない気持ち、その他にも非常に沢山の感情がこみ上げてくる、だが今はもういないのだ。もう敢えて考える必要もない。
 忘れれば良いのだ。だが完全に忘れきってはいけない。でも元々そんなことはできないけど。
 黒いシャツに紺色のジーパンにに白い靴下。そんな格好で彼はくつろいでいた。
(黒が落ち着くんだよな。さすがにいつも黒ずくめでいるなんてことはないけど)
 一人の家というのは静かである。人によってはあまりの静けさに不快感を抱くかもしれない。だが彼にとってそれは不安ではなく、どちらかといえば安らぎをもたらしてくれるものだ。
 だがその安らぎは一瞬にして破られた。
 プルルルルルルル・・・・・・!
(電話? こんな朝っぱらから非常識だな。どうせろくでもないものだろうから適当にあしらおう)
 彼はそう思い、電話のところにわざと少し遅く歩み寄り受話器を取った。
「もしもし?」
「何やってんのよ!」
 いきなりである。
 受話器を耳に当て、こちらが一言言った途端に鼓膜を突き破らんばかりに張り上げられた声が彼の耳を襲った。
「は? ど、どちら様ですか?」
 彼は一瞬ならずたじろいでいたが、なんとかそのセリフを口の外に出すことができた。
「どちら様、ですって? よくそんなことが言えるわね! 今日は私と一緒に出かける約束してたでしょ!? 寝ぼけてないでさっさと来なさいよ、バカ!」
 尋常でない怒りを感じさせるその女性の声はそうまくし立てた。そのすぐ後に、ガシャン、という音が続いた。突風のように怒りをぶちまけてこちらが何かを言う前に電話を切ったのだ。
「な、何なんだ・・・?」
 彼は呆然と受話器を握っていたが、やがて思い出した。
「あ。やばい、今日は彼女と会うんだった!」
 心地よい朝はもうその影すら見えない。少なくとも彼にとっては。
 彼は急いで支度をし、待ち合わせの場所――澄んだ空気が支配するあの裏山へと向かった。




 今日は休日である。もちろんそんな時でないとデートなんてできないが。
(でもデートじゃないよな。だって彼女とは付き合ってるわけでもないし。友達同士が出かける。ただそれだけだ)
 彼はそう思っていた。きっと彼女もそう思っている。そう信じていた。
 だがデートにせよ何にせよ、彼女が怒っているのは間違いなかった。
 さっき電話を通じて怒りをぶちまけられたばかりである。だが彼女はまだ全然怒り足りないだろう。多分自分が待ち合わせの場所に着いてから本格的に怒りをぶつけてくるはずだ。
(こんなときにできることとは何だろう? 素直に謝る、物で釣る、言いくるめる、泣く、笑う、死んでわびる、外国へ亡命する・・・・・・)
 いくら考えてもいい手が浮かんでくることはない。
 結局彼はこうした。
 観念する。
(なんで今日デートみたいな事するんだろう?)
 もはや爽やかな朝とはかけ離れた気持ちでそんなことを思いながら、だがなんとか明るくしようと努力しながら彼は走り続けた。




 それはこういうことである。
 約三ヶ月前。菊川はいつもの学校に通い、いつものように授業を受け、いつものように暮らしていた。
 特に他の日と違うようなことなんてないと思っていた。いや、そう思うことすらなかったと言う方が正しいだろう。
 だがいつもと違うことがあった。まあ厳密に言えば全く違わない日なんてないだろうが、彼をはっきりとこの日は違う日だと思わせるような出来事があった。
 昼休み、彼は昼食――といってもその日はいつもより遅く起きてしまい弁当を作る時間がなく、弁当を持たずに登校上に学食にはパンしか残っていなかったためさっさとパンを2つほど食べて終わりだったが――をすませ、することがなくなってしまったので屋上にいくことにした。
 普段誰もくることのない所。そこは風が自由に舞い踊る場所。
 コンクリートでできた灰色の地面が人間に踏まれることが少なくて喜んでいるのかもしれない。そしてたまに舞い降りてくるごみや塵などと会話しているかもしれない。
 そう彼が勝手に妄想を抱いた場所。
 そこに1人の女子生徒がいた。
 黒いロングへアーを風にまかせながらこちらに背中を向け、広く澄み渡る空を見続けている。
 服装はもちろんセーラー服である。制服だからだ。だが他の女性徒との違いはそのスカートの丈が他の女子よりやや長い。とはいえ私にはそれが普通に思えた。何故なら彼女のスカ−トの丈は彼女のひざの辺りまであるからだ。
 今の女性はどうにかしてスカートをやけに短くしている人が多いが私にはその心理がわからない。別段どうにかして理解しようと思ったこともないが。
 別に今の女性のスタイルについて大層な意見を持っているわけでもない。でも今は昔とは違う。当たり前だが。
 だがそれでも今の時代の波――といっても今言っているのは俗世間の波のことをいうのだが――に乗ろうとは思わなかった。流行りに流れる、いや流されることに安らぎを感じるわけでもなかったし。自分は自分の気に入る道を進めばいいじゃないか。そう思っている。
 そのようなセリフをあまり親しくない友人に言ったことがある。そのときは、
「偉そうなこといってんじゃねえよ、ボケが」
 と、その友人に目つきの悪い目で睨まれ一蹴された。だが別にそれを気にしているわけでもない。
 第一今は一言もその友人と話すことすらない。
 彼は一瞬ならずどうしようか迷った。
 滅多に人がいるはずのないこの場所に人がいるとは思わなかったし、ましてや女性である。女性と接するのは苦手だった。得意になろうとも思わなかったが。
 何も言わずにいるのも気まずい気がしたので、近くまで寄り声をかけた。
「こんにちは」
 こちらの声に対し彼女はやや驚いたように振り向き、ほぼ無表情でこちらの挨拶に答えた。
「・・・こんにちは」
 どうやら愛想を振り撒くタイプではないようである。彼女の顔は面長で、外国人の血が入っているように思えた。だが稀ではあるが日本人でもそういう人はいるので特に気にしなかった。というよりもそういう顔の人の方が彼には普通に思えた。いや好感が持てたというべきか。
 彼女の少し切れ長の瞳が私を映す。
 この人は何だか違う。そう思わせるような雰囲気を彼女は持っていた。
「まさかここに人が来るとは思わなかったわ。物好きなのね」
 彼女が言う。それはあなたの方だろう、と思わなくもなかったがわざわざ最初から角を立てるわけにもいかない。
 その言葉は喉の奥にしまいこみ、代わりにこのセリフを口にした。
「そうですね。よく言われます。ところで何をしているのですか? 青空でも見たくなったのですか?」
 すると彼女は、
「ん〜、まあそんなところかな。昼休みって時々どうしようもなく暇なときがあるでしょう? だから半分探検するような気分でここに来たのよ。あなたも同じなのでしょう? ここには何もないんだし」
 図星である。まさか今日の昼休みにここに人がいることを予知してきたわけじゃないし、全くもって彼女の言う通りである。だからこう答えた。
「全くその通りですよ。まあ少し考えればそれ以外の理由がないことに気づくでしょうが。あ、えっと、私の名は菊川英樹と申します。よろしく」
 自己紹介をしていないことに気づき、彼は簡単に自己紹介をした。続けて彼女も自己紹介をした。
 それから彼女の瞳は彼の足、体、腕、顔など、つまり隅から隅までを見渡した。
「・・・なんですか?」
 少し訝り、そううめくと彼女は何か興味深いものを見つけたような感じをその落ち着いたような声に含ませて答えた。
「何だか違うと思うのよ、あなたって。何が違うって聞かれても困るけど、敢えていうなら雰囲気かしら。あなた変わってるって言われたことない? いやあるでしょ。うん絶対ある」
 こちらが口を開く前に1人で自分の出した疑問を勝手に解決し、彼女は確信しているようだった。まあその通りなのだが。それよりも気にかかることがあった。
(この人、考えることが私と同じだ・・・・・・?)
 彼女との出会いは、まあそのようなものだった。




 それから今まで、彼女としばしば会うようになり、色んな事を話し合った。他愛のないことや、当時中学生であった彼らが語るにはあまりにも大きなテーマのトピック、その他にも沢山。
 彼女は他の友達と違うことは明白だった。女性の友達なんて今までほとんどいなかったから比べても意味がなかったかもしれないのだが。でも彼はそう思った。
 彼女とは喧嘩することが多かった。ある事において意見が合わないと、互いに互いを批判しあった。それこそ百獣の王であるライオンですらその場にいたらすぐさま逃げ出すような剣幕で。
 例えば、こんな感じである。
「絶対にチョコパフェの方がおいしいわよ!」
 ある日、喫茶店で彼女が片方の手でテーブルを割らんばかりに思いきり叩き、もう片方の手で菊川を指差し、そう叫んでチョコパフェの美味しさを主張した。だが菊川は引かなかった。
「いやバナナパフェの方がうまいに決まってるじゃないですか!?」
 彼女はその言葉を聞くと、綺麗という言葉がよく似合う顔を人をバカにしたような表情に無理矢理歪め、先程よりも激しい勢いで反論した。
「何世界中の誰が聞いても首をかしげ過ぎて首が折れてちぎれてそのまま飛んでっちゃって頭だけ世界一周旅行しかねないようなこと言ってるのよ!? チョコパフェはね、あのチョコのまったりとしたところがたまらないんじゃない! バナナパフェ? バナナなんて単品で食べりゃいいじゃないのよバカ!」
「バカとはなんですか! どこの世界に喫茶店で単品のバナナを注文する人がいるのですか!? あなたこそもっと考えてからものを言いなさい!」
「うっさいわね! いるわよ、目の前に! さあ今から単品でバナナを注文しなさいよ! 店員さん! この人が単品でバナナ20本――」
「どうしてわざわざ世界でただ1人喫茶店でバナナを食べる人にならなきゃいけないんですか!? しかも何ですか20本って? どうして軽食でバナナを20本食べるかなぁ!?」
「あら、あなたならバナナ20本を頼んで手に取るや否や口から鼻から眼の隙間から耳の穴からしまいには頭蓋骨をこじ開けていっせいにバナナを突っ込んで食べると思ったんだけれど!?」
「どこかの怪物と間違えてませんか!? あなた奇人変人びっくりショーの見過ぎですよ! いやあなたは本当は奇人国奇人州奇人市出身の奇人さんで奇人しか見てない奇人だからそんなことが言えるんです! これからは凡人常人びっくりしないでショーを毎日見なさい!?」
「奇人をそんなに連呼しないでよ! それに何なのよそれ!? ネーミングセンスないわねあなた! 大体そんなのショーにならないわよ!」
「―――!」
「――――――!」
 ・・・・・・・・・・・・
 このやりとりは、互いに怒鳴りあったことにより息が切れてはあはあ言って肩を上下させるまで続いた。
 当然、この喫茶店では彼らは有名人となってしまい、あまりの気まずさに二人とも二度とその喫茶店に入ろうとすることはなかった。
 例が非常に悪いが、こんな感じでよく喧嘩をした。
 とはいえただ貶し合うだけでなく、互いに互いの悪い点を指摘し、それを正し合って、そして少し大げさに言うならばそうすることによって互いに高みへと昇華しようとしていたという方が正解だと思う。
 さっきの例ではあまりにも説得力がないのだが。
 でも彼女との喧嘩の後には不思議と怒りなどは消え、まるで嵐が去った後のように気分がすっきりした。そしてどちらかが先に謝り、仲直りをする。明らかに菊川の方が謝った回数は多かったが。
 このような体験は初めてではなかったが、菊川は母親以外でそれと同じ経験をしたのは彼女が初めてだった。
 このような体験を通して彼は彼女に次第に親近感を持っていった。
 いや、それ以外にも大きな理由があった。それは――
 彼女も自分と同じような陰を持っていたからだろう。
 彼女の父親は、はっきり言うと暴力しか取り柄のない――それすら取り柄とは言えないが――生き物で、何十年もの間、彼女の母親や彼女自身を苦しめつづけた。そしてついに彼女の母親が包丁で自分の夫と戸籍に書かれてしまっている生き物を殺害し、自殺した。そのとき母親は夫とされている人物を殺したのとは違う包丁を使った。その心理はわからないこともない。
 そのような環境に生まれ、そんな形で母親を失った彼女はおそらくとんでもなく辛い人生を歩んできただろう。
 なぜなら、悲しみを知っている人間でないとできない行為を彼女はすることができる。それがわかる。
 自分だって似たような環境に置かれていたのだ。だが同情はしなかった。あのような絶望を乗り越えられるような人間には、安っぽい同情なんて必要ない。私はこのときそう確信していた。
 その後様々な出来事がことごとくただ彼女と、彼女の姉――4人家族だったのだ――を襲ったが、なんとかそれは乗り越えたようである。さすがにそのダメージは大きかったが。
 それからしばらくして学業にもそれほど特別な障害なく励めるようになり、その成績は学年トップをいつも奪っていた。菊川も頭が悪い方ではなかったが、誰かにいつもトップを取られていた。それが彼女だったのだ。今ならそれにも納得がいく。
 彼女は菊川と親しくなるにつれて、色々なことを彼に話した。親にすら言わないようなことまでもだ。
 話題によっては彼は困るしかなかったのだが。
 彼女と菊川の似ているところは沢山あった。例えば、こんなところである。
「ここの近くで居るととっても気持ちの良いところって知ってる?」
 いつものようにいつもの昼休み、いつもの学校のいつもの屋上で彼女はそう訊いてきた。
 もう彼にとって屋上で彼女と会うことは日常の一部分となっていた。
 そうなれば当然、
「おい、お前そういうことには無関心だと思ってたが結構やるじゃんかよ。彼女を狙ってた奴は結構いたんだぜ」
 と、屋上に行く前に近寄ってきた友人の1人が思っているように彼らは付き合っていると思われる。
 彼女は控えめに言ってもとびきりの美人だった。腰まで伸びるダークヘアーは彼女を際立たせ、全てを飲み込むような漆黒の瞳は、だがその奥に何ものにも呑まれることのない輝きを灯していた。
 自分にはその自覚はなかったが後になって考えると付き合っているのと同じだったと思う。
 ただ足りないのは一つ。もう彼女に対して言うことがない言葉。もう彼女に言う事ができない言葉。
 それだけだった。
 彼女が答えて欲しい場所を菊川は知っていた。彼も彼女もあの場所が好きだったのだ。
 もっとも、彼がその場所を思い出すのにはしばらくの時間を要したが。
「・・・ああ、もしかして私立のなんとかかんとか学園の建設予定地の裏山のこと?」
「そうよ。よく知ってたわね」
 そのような言葉を言うわりには、それを予想していたように感じられたが。彼女は笑顔で続けた。
「今度、行ってみない?」
「・・・裏山にですか?」
「ええ、どうかしら?」
 こちらの返答に期待と不安を抱いているような顔で彼女はこちらを見つめている。
 菊川はもちろんこう答えた。
「ええ、いいですよ」
 そして二人でその裏山に行き、話をしたりマツボックリを拾ったり、蛇のような形の折れた枝を面白いからという理由で持ちかえったり色々なことをした。
 その他にも沢山彼女との時を過ごした。クイズ番組で答えを予想しあったり、雪合戦をしたり、二人で勉強をしたり、悲しい事件のニュースを見て共に憂えんだり、楽しい知らせに喜び合ったり、互いの考え、信念をぶつけ、それについて論じ合ったり、互いが互いを恐怖したこともあった。畏怖の念を抱いたこともあった。もちろん同じ瞬間に互いに恐怖を感じたり畏怖の念を持ったりしたわけではないが。それに彼女のことで理解できないこともあった。今となっては何故か思い出せないでいるのだが。
 つまりはこういうことである。
 今ならそう言うことができる。
 優しさ。冷淡さ。慈悲。無慈悲。怒り。悲しみ。絶望。希望。不理解。理解・・・・・・
 それらが、相手に対するそれらの心が合わされば、それは相手を真に愛しているのと変わりはしない。




 彼女は多分、今彼女がいる風景にもっとも似合わない気持ちで、態度で、振る舞いで、そこにいた。
 太陽は燦燦と輝き、空はその澄んだ自分を下界のものたちに惜しみなく見せ付けている。鳥は力強く羽ばたき、木々は風に身を揺らして和やかにくつろいでいるかのようだ。
 だが彼女は怒っている。私の名前は「怒り」です、といったら人が信じてしまいそうな形相でたたずんでいる。ここまで風景にミスマッチな気持ちでいられる人も少ないだろう。
「まったく、こんなときにボケかましてるんじゃないわよ」
 彼女はそう吐き捨てた。もう30分以上人を待ち続けている。
「どうしてなのかしらね? 頭は良いくせに抜けてるところが多すぎないかしら?」
 どれだけの時間になるだろうか。彼女は1人で愚痴を言い続けている。彼女は待つことが嫌いだ。それが好きなんて人はそうはいないだろうが。
長く艶のある漆黒の髪。すらりとした、スリムという言葉が具現化したような体。だが出るところは出ており、平たく言えば理想的な体つきといえるかしれない。彼女はある事情で病院に入院したときに医師や看護婦に理想的だといわれたことがある。様々な検査を受けたのだが、スタイルも血液の状態もその他の要素も医学を学んだ者から見て理想的と判断された。つまり外見だけでなく、生理学などの見地からも大変良い体を彼女は持っているということである。
 当然そんな女性に声をかけてくる男は多かったが、彼女はことごとくそれをかわしてきた。しつこい男もいたが、策を弄する男もいた。詳しくは言えないが、要するに彼女をはめてしまおうということだった。
 だが彼女は生命力に溢れていたため、その作戦は見事に失敗したのだが。でもそんなことはほとんど誘拐と変わらない。そんな誘拐まがいの事をする男まで引き寄せてしまうということは、ある意味理想とはかけ離れているとも言える。
 そんな彼女は女性にもモテた。いわゆるアイドルといったところか。こう言っていると、まるで彼女には欠点がないように思えるが、そんなことはない。彼女にも欠点はある。例えばお人好しなところだ。あるいは長所とも言えるか。
 彼女は先程挙げたような人間なので、モテる反面、嫌がらせの対象にもなり易かった。
 学校で靴の中に画鋲を入れられたり、あらぬ噂を立てられたり、体育の後で着替えようと思ったら制服がぐちゃぐちゃに汚されていたこと、その他にもえげつない事が沢山あった。彼女も最初は耐えていたり冷静に何らかの対処を施していたのだが、そのうち怒りが収まらなくなって犯人、クラスのある女性グループのリーダー格の女性徒――彼女には学校みたいな社会で派閥みたいなもの作って何やってるのかしらとしか思えなかったが――にすごい剣幕で怒りをぶつけた。
 人の怒りには段階があると言われることがある。そのときの彼女の怒りは――多分かなり高い段階の怒りだったと思われるが――それを放課後まだ何人かが残っていた教室で建物全体を壊さんばかりに暴れまわった。それは人間とは思えないようなもので、ぶつけられた本人は泣きながら許してくれるよう土下座して謝り続けた。怒りに直接さらされていない男子や女子も何人か腰を抜かしてしまってその場から動けず、その場で震えていた。それほどの怒りである。想像できないが。それでもそれはまだ最終段階の怒りではない。彼女自身、自分が完全に怒ったらどうなるか想像もつかない。
 そのような部分がある、だからこそ彼女は人間らしいといえるのかもしれない。ただ成績優秀、スポーツ万能、容姿が綺麗なだけの人間では、とても綺麗だが何も表現していない、意味のない絵画と同レベルの人間でしかなかったかもしれないからだ。
 彼女がさらに10分程待ちつづけたとき、誰かの足音が聞こえてきた。こちらがいることを認識したのか、
声をかけてくる。
「待、待ちました?」
 とぼけたようなことを言ってくる。すぐに怒りをぶちまけてしまおうかとも思ったが、相手がすぐ目の前
に来るのを彼女は待った。
「・・・・・・」
 無言で目の前の男を見つめる。ムードによってはロマンッティックになれたかもしれない。いま居る場所だって彼女も目の前に居る人物も好きな場所なのだ。だが今は生憎なことにそんなムードはかけらもない。
「あ〜、怒ってます、ね」
 とぎれとぎれに男がうめく。彼女は少し迷った。今帰ってやろうかと思わないこともなかったが、しばし考えた後、結局こうすることにした。急に笑顔に変え、相手の目を見て告げる。
「遊園地」
「は?」
「今日の遊園地のことだけど、あなたがおごりで連れてってくれるのなら許してあげる」
「え、おごり? う〜ん、まあ、わかりました。いいです、はい」
 彼女はこの無茶な条件が通る事を半ば確信していた。もし通らなくても相手が怒ってしまわないほどには自分たちは仲が良いと思っていた。彼女の思ったとおり、男は情けない顔つきで了承した。実はこのとき男は当分エンゲル係数を下げる努力をしようと心に誓ったのだが、まあそれはどうでもいいことであった。




 ジェットコースターに乗り、悲鳴をあげる人、コーヒーカップをぐるぐる回し、端から見ると降りた後で吐くことを望んでいるように思えるカップル。ゴーカートに乗る親子。お化け屋敷からはやけに高音の悲鳴が聞こえ、グレート・スプラッシャーの飛ばす水飛沫に濡れる人、遊園地のマスコットキャラクターと記念写真を撮る家族、さらにはベンチで堂々とキスをする恋人もいる。
 つまりここは遊園地であるということだ。
 結局菊川が二人分のチケットを購入した。
 "2DAYS PASSPORT"を。
 平たく言うと彼らは今晩はホテルに泊まり、二日間ここに滞在するつもりだ。
 不良である。
 今は冬休みである。だからといって生徒、しかも異性同士が二人だけで外泊などしてはいけない。
 だが彼女は一見生真面目であるが(いや実際に真面目なのだが)、ところどころ柔軟――この場合は少し意味が違うかもしれないが――なので、
「そんなやばいことをするわけでもないし、このくらいいいでしょ? 私もあなたもこんなことで羽目を外し過ぎて取り返しのつかないことをしてしまうような『できてない人間』じゃないでしょう?」
 と言い切り、菊川も、
「このくらいはルール破ったって人間がだめになるわけでもない。まあいいさ」
 で片付けた。彼も傍目には頭ガチガチのインテリに見られることもあるが、実はこういう一面もある。
 つまり彼も外面と内面が違うということである。だが世間の目から見たら不良には違いない。彼らは気にしないが。そして彼らは遊園地で二日間遊ぶことにした。
 このときはまだ、菊川は知らなかった。知らなかったのだ。
 彼女のような他人と接することがこんなにも心を弾ませることを。有意義な時間が過ごせることを。自分を、相手をこんなにも人間として高めてくれることを。飛び跳ねたくなるほど楽しく、抱きしめたくなるほど愛しい時であることを。そして――
 悲しいほどに儚いということを。




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