クラレンスはレンス家の長子で、ゆくゆくは家督を相続する手筈になっている。
 レンス家といえば近年始めた事業も軌道に乗っており、豊かなことで知られるその国でも有数の名家である。家系図をたぐれば十二世紀にも遡り、縁戚は国内外を問わず拡がっている。そしてそのどれもが、現在よりも勢権勢を増す未来のために力を注ぐ者たちだ。家督は長子に譲られるのがその国に慣習であり、それはまたレンス家の鉄則でもあった。
 だがクラレンスは、クラレンス・レンスという自分の名前を嫌っている。名家という称号の維持に腐心するレンス家も、次期当主という立場も、家柄と金儲けだけが取り柄の男たちが、さりげなさを装い次々と現れるのも我慢ならない。いまは現当主である父親に、いずれは家と家が持つ名声と責任に、身も心も絡めとられていくだろう自分も許せない。
 クラレンスにとってレンス家にまつわるものは、ただひとつを除き、嫌悪と侮蔑を悪臭のごとく撒きちらす汚物のようなものだ。
 家から逃げる算段を考えることが、クラレンスの唯一の反抗だった。のらくらと婿候補をかわしていても対象は増えるばかりであり、クラレンスが当主となってもレンスの名も質も変更できない。
 芝居めいた夢想だけが、諦観に覆われたクラレンスの心の一角で脹らみ積まれ沸きたち凍る。
 夜の静寂の中で、夢想はついに現実を侵す。


 女が寝台のクラレンスに手を差しだす。紅のくちびるを無表情に結び、見下ろすように浮かび、右手を横たわるクラレンスの胸の上で軽く広げている。美しくもなければ醜くもない。十代のようにも五十代のようにも見える。
 当然クラレンスは夢なのだろうと思い、そのまま瞳を閉じた。
 朝にふたたび目覚めたとき、女はいなかった。
 それから七日、夜毎に女は現れた。
 いつもクラレンスはいちどは目を開き、女を見る。女に表情はなく声もない。ただ手だけが、クラレンスに差しのべられる。
「なに?」
 そう尋ねようと女は変わらない。なにも言おうとせず、身じろぎもしない。朝になれば消えている。
 そうして八日目にクラレンスは手を取った。
 女は初めて、微かな笑みを浮かべた。


──はじめまして、クラレンス
「なんだ……、話せないのかと思ってたわ」
 自分が声を出して初めて、女のことばが音として聞こえたわけではないことがわかった。
──あいにくと、私に発声器官はないの
 そしてこんどは、口に出していないことに反応されて目を見開いた。
──残念だけど、クラレンスの中に私を説明することばはないわ
 夜毎空中に浮かぶような女が人間であるわけがない。しかし、それだけではない違和感を、クラレンスは感じていた。
「……私の中?」
──クラレンスが私の手を取ったとき、やっとあなたと私のことばが一致したの。クラレンスの中に蓄積されたことばとその意味を、触れることで手に入れたから。
「あなたは、なに?」
──さっきも言ったように、私を著すことばはないわ。クラレンス自身にだけ通用する意味でならば、望みを叶えにきた存在になるのかしら
「望み? 私をこの家から連れだしてくれるとか?」
──そうよ
 こともなげに答えて、女はまた手を差しだした。最初とは逆の手だった。
──クラレンスがこの手を取れば、もうレンス家の娘でも、レンスの次期当主でも、家名の奴隷でも囚人でも従属物でも、父の道具でもなくなる。クラレンスと呼ばれることもないでしょう。
「自由にしてくれると?」
──レンス家からは、自由になれる
「からは、ということは別のなにかにまた囚われるわけね……?」
 警戒するように、クラレンスは声をひそめた。女はゆっくりとうなずき、ことばを続けた。
──ええ、そう。そのとおり。クラレンスは、レンス家から自由になることを強く望んでいた。私はそれにならば協力できるわ。この手を取れば、それが始まる。
 延べられた白い腕に目をやり、クラレンスは初めて恐怖におののいた。女のことばに嘘は感じられない。しかしそれが死を誘うものであったとしても、きっと嘘はないのだろう。
──いいえ、私はクラレンスにとって、死神に当たるものではない。でもそう、……悪魔というのは少し近いのかもしれないわね。クラレンスがいまできることはふたつある。私の手を取り、世界の外側で世界と共に在りつづけるか。それとも拒絶し、レンス家と共に生きるか。
「ふたつの牢獄からどちらかを選べということね?」
──わかりやすい、いい比喩だわ。
 愉快そうに女は笑った。だがそれは、疲れた老婆が不意に浮かべる笑みのように、ささやかで自嘲的だ。
「あなたの側の牢獄を私は知らない。だから選べない」
──考える時間をあげるわ。明日の夜にまた来るから。問題は私の側の牢獄ではなくて、あなたがレンス家をどれだけ憎んでいるかなのよ
 そのままかき消えた女の向こうに、暗闇と静寂が戻った。
 女の放った最後のことばを、クラレンスは眠ることもできずに考えた。


 結局クラレンスは、次の夜、現れた女の手を取った。
 クラレンスをレンス家に積極的に留めていた唯一の理由が、いずれ絶望の種にしかならないことを知っていたからだ。
 目配せは許される。親愛として頬にくちびるを寄せようと気にもとめられはしない。けれども愛の交感としてのくちづけは絶対に許されない恋人が、クラレンスにはあった。生きるための秘かな歓びの源でありながら、逃れようのない原罪の源だった。
 触れることしかできなかった。椅子の陰で、スカートの陰で、落胆があれば慰めるために、悦びがあれば分けあうために、姉と弟は互いに手を包み指を絡ませた。
 指は絡ませられても、交わることは許されない。その不幸こそがふたりを強く結びつけていたのだ。
 それきりレンス家からもその国からも、世界のどこからもクラレンスは消えた。父親が手を尽くし行方を求めようと、次に当主となったクラレンスの弟がそれを継ごうと、手がかりさえなかった。
 神隠しと呼ぶ者がいた。それが真実であると、誰が知ろう。


 クラレンスの弟は先祖が蓄えた莫大な資産のすべてを、躊躇なく姉の捜索に費やした。彼もまたレンス家を厭う者であり、それが姉との愛の根本を為していた。
 弟の、恋人の失踪による落胆と悔恨、奮戦と執念を、当初彼女は正した。世界を取りこむたび、その本質をあるべき姿へ戻す。それが彼女の仕事であり、その一環として、弟を正そうとした。
 女はクラレンスを自分の後がまに据え、消えていった。最後に告げたのは、自死の方法だった。
──いつかあなたも己に疲れるときが来るでしょう。そのときは、私がしたように後継者を捜すといい。
 神の死に世界は一瞬震えたが、新たなる神の前にそれも静まった。
 世界は変わらず、続いている。世界を憎みそこからの逃亡を望む者を、神という名の囚人に据えて続く。


 死した魂は世界に還元され、新たな魂になる。並外れて強い感情は、いずれ本質をも歪める。常にある歪みはやがて日常となりいつしか正常となり新たな形に変わる。
 妄執を抱いたままの魂が生まれる。失ったモノを探すために奔走し一生を終える、呪われた魂だ。
 正されようと消えることない妄執を抱えて、幾度も生を繰りかえす。
 そうしてようやく、彼女の前に辿りつく。


 分身たる感覚球を通して、彼女にはそれがかつて弟だった者だとわかった。上級天使はクラレンスを知らないし、彼女がそうだったことも知らない。囚われの神として姿をさらして、野望を抱えた彼は気づかない。ただ、世界を手にすることで失ったモノを取りもどそうと考えるだけだ。
 彼にとって世界はなにか大切なものが欠落した場所にすぎない。それを正常なあるべき姿へと、自らが神になりかわることで叶えようとした。そのため彼は幾分強引な手段を取りつづけた。そこには死もあれば、死よりもひどい結果もあった。幾年を経て派生した思惑の結果、彼女はひとりの青年に出会うことになった。
 神に触れた青年、狂いはじめた神を理解しようとした青年、神にことばを与えた青年、血を分けた近しい者を裏切った青年、そんな黒髪の青年を彼女は愛した。意志と不安を宿した瞳を間近で見つめ、くちづけを交わした。
 絶望が彼女に弟を捨てさせ、希望が彼女に弟を捨てさせた。
 ふたたび裏切られたということすら、妄執を宿す彼は知らない。知らぬまま、神と青年をひき裂いた。
 そうして神に最も近い場所で感覚球に捕らわれてなお、野望の潰えるを彼は認められずにいる。


 通路の果てから、靴音が近づいてくる。いつともしれぬ前回にあったような惑いは、そこには感じられない。
 慢性的な痛みと不安定な状態に置かれながら、上級天使は終わりがくるのを待った。
 身を貫く感覚球を、ふたつの気配がすり抜けていく。
「もうすぐ、あのひとが来る……」
「早く会いたい。ボクはいなくなってもいいから」
 ふたりの少女を目にして、上級天使は小さく毒づいた。妄執は彼の本質だった。時を越え世界を変えるほどに、彼を司っていた。
「まだ、私の負けが決まったわけではない」
 少女たちは上級天使を哀しげな瞳で眺め、声を揃えた。
「まだそんなことを言っているのね……」
「お前に、神たる資格はない」
「あなたほど、世界を憎んでいるひとは、いない。でもあなたは、世界から逃亡しようとは、思わない」
 長く波打つ金の髪が、さざめくように揺らいだ。
「神になりたかったの? 自分を憎んでないひとは、神になんかなれないよ。ボクは君を神になんかできない。でも」
 プイと横を向いた頬に、短い髪がかかる。
「でも、あのひとがしたことを、どうしてあなたはしなかったの?」
 両手を差しだし、泣くように震える声で少女たちは責めた。
「ただ、触れてくれるだけでよかったのに。………フィリップ、ふたりで神曲を読んだあのとき、椅子の陰で繋いだ手のように……」
 その嘆きの意味を、上級天使は持ちあわせていなかった。向けられた四つの手を、彼はただ怪訝そうに見つめるだけだ。
 彼はかつてクラレンスと呼ばれた娘の弟だった。手がかりひとつ残さず失踪した恋人を取りもどそうとした、傷ついた魂だった。あるべき世界を欲してもあるべき世界を想像できない、病んだ妄執の虜だった。
 手に手を重ねることは、彼にはできなかった。そのことが持つ意味を、彼は知らなかった。最後に裏切ったのは、彼のほうだった。そしてそのことすらも、彼は知らない。
 薄暗い通路の奥で外套の影が揺れる。少女たちは顔を見合わせ、気を取りなおしたように微笑み、かき消える。
 靴音は徐々に大きくなる。
 委ねられた世界の末を、黒髪の青年はどうするのだろう?
 待ちわびているのは、彼女だけではない。