賢者
 泉を囲むようにしてわずかに林が広がり、その脇には村とも呼べないほど小さな集落がある。
 そこから岩肌と草地が点々とする荒野を南にしばらく行けば、週二回市場の立つ街に辿りつく。そのために、わざわざそこを訪れる者は少なかった。荒野を渡りきるような旅をする者はいまでは珍しく、そういった気概を持つ者は、短い休息以外に集落に用もなかった。


 旅人たちが、その集落を目的にやってきたのは七ヶ月ぶりのことだった。前に来たのはふたり連れの行商人で、近隣にはない海産物をいくつか売りさばいていった。またそういった一団かと集まった住人たちに、いちばん小柄な男が低いが若さの滲む声で用件を述べた。荒野を渡るためには必須である布の覆いに隠れ、口元以外は影になってよく見えない。
「異形に困っていることはないか?」
 愛想のかけらもない声に、集落の代表格の初老の男が怪訝そうに眉をひそめる。
「……いけい?」
「この辺りにひとを襲う化け物どもはいないか?」
 あらためて口にされた質問に、初老の男はようやく彼らがたずねるモノに思いあたった。
「あぁ、イギョウのことか。じゃああんたたちは、イギョウ狩りかね?」
 うなずく男たちに、彼は感心したように続けた。
「イギョウ狩りがまだいるとは思わなかった。ここはもちろんだが、ゴヤの街でもとんと耳にしなくなったよ」
「俺たちも、自分たち以外では会ったことがないな」
「この辺りではたまに赤跳ねと寂しがりがいるが、近くに寄らなければこれといった実害はないのでなあ」
 少し考えてから彼はそう答えた。それは確かに事実だったが、さきの日照りで異形狩りに渡せる謝礼の余裕がないのも本当のことだった。
「赤跳ねは寄ってきたときに持っている物を投げわたせばいいし、寂しがりもこちら近寄らなければ爆発はせんから……」
「なるほど、リグロとジェィイロムのことだったか。そいつらはどの辺りに出没するんだ?」
「いやしかし、最近では滅多に姿も見せんよ」
 笑って首を振る初老の男を遮るように、人だかりの中から少女の甲高い声が上がった。
「いるよ! 泉の反対側にいる。あんまり見かけないけど」
 クエン、と叱責するような声が周りの大人たちから上がった。異形狩りの男たちが少女に目をやった。怯まずに少女は叫んだ。
「母さんそれで足を悪くしたわ!」
「いやいや、ですが殺されてしまったわけではないんですよ。ちゃんと逃げて戻ってこれましたから。それにもう二年も前のことだ」
「泉の向こうにはどう行けばいいのかな?」
 とりなそうと言いつのる初老の男から離れて、男たちは少女の元に向かった。長い外套に覆われていても見てとれる屈強な身体には、武器とおぼしきものが布に巻かれて下げられている。それらに気圧され、だれも男たちの歩みを止めることができない。 話を続けていた男だけが、頭の布を外した。声だけでなく顔つきも若い。この集落での基準なら、嫁取りをするか否かといった年かさだ。
 少女の指さした先には、規模に似合わず暗い林がある。彼らは顔を見合わせ、そうしてゆっくりとうなずきあった。


 集落まで水路によって水が引かれているので、最近では住人が泉に行くことは滅多にない。だが、水路ではどうしても落ち葉や藻が入ることがあり、病気や怪我の治療に使うものは、泉まで直接汲みに行くことになる。
 小一時間ほどかかるが、道は平易だ。林が暗いのは木々がよく茂っているためであり、その葉も濃い色をしたものが多いせいだった。
 礼金目当てではない。異形の骨や肝には思いもよらぬ効能があり、行くところに行けばそれは驚くほどの値で取り引きされている。
 そう告げられてもなお、集落の代表をつとめる男は渋い表情のままだった。滞在するあいだの宿と食事だけでいいと告げられても、半信半疑だった。
 少なくなったとはいえ、イギョウ狩りを生業にする者たちだ。約束を違えようと力に訴えられれば、なすすべもない。
 あくまで返事を濁す代表に、男たちも期日を五日間と切るしかなかった。
 荒野か林に野宿すれば許可を取る必要などないのだが、そうすれば四六時中神経を張りつめていなければならず、狩りには不利となる。慎重であったが故に、彼らもいままで生きてこられたのだ。
「そうしましたら、泉の辺りに詳しいのがおりますから、それに案内させましょう」 続けて、男は二度ある名前を呼んだ。人垣を抜けて来たのは口を真一文字に結んだ黒髪と黒目の子供だった。灰褐色の服から、陽に焼けた細い腕と足がのびている。身なりからしてこの集落の子供に違いなかったが、周囲の者と似たところのない顔立ちをしている。旅を続けてきた彼らにも、少年に似た風貌の集う地域の記憶はなかった。どこの村や街で出会ってもなにかしら異質さを感じるような、そんな子供だった。「心遣いは有り難いが、子供は足手まといなる」
「いや、確かに子供ですがジュウドは足も速いし、林にも慣れている。なにかあったら木に登ってやり過ごす知恵もあります。それに賢者とも懇意だ」
 先ほどとはうってかわった安堵の表情で、初老の男は告げた。
「賢者?」
「いつもじゃないけど、泉にいるんだよ。俺を拾ってくれたひとだ」
 ジュウドと呼ばれた子供が、男たちを斜めに見上げて答えた。声や口調に幼いところはない。
「お前はいくつだ? 普段はなにをしている?」
「秋に十一になる。いつも手が足りないところの手伝いをしているよ。畑や芋洗いや大工仕事なんかの」
「危険な目に遭うかもしれないが、いいのか?」
「ひとりでも泉に行くことは多いから。むしろおじさんたちがいたほうが安全じゃないかな」
 おじさんと呼ばれて、異形狩りの男たちはそれぞれ苦笑いする。特に交渉をしていた男は、初めて年齢にそぐう表情を浮かべた。
 ジュウドに愚鈍な印象はなく、彼らも子供という侮りを抱くのをやめた。
「いますぐ行くのか? もう少ししたら日が暮れるから、行くんなら急いだほうがいい」
 代表で話していた小柄な男が、確認するように仲間の顔を素早く眺める。そうしてジュウドに視線を戻し、短く告げた。
「頼む」


 小柄な若い男は他の仲間から「二代目」と呼ばれていた。いちばん屈強な男は「ケイビ」、右目の下から顎にかけて二本の傷がある男は「リク」、左手の指が六本ある男は「六本」だった。
 林はひとがすれ違えるだけの幅が、踏み固められている。その脇には縦半分に割られた金属管が継ぎ目されて、清水を流している。
「よくこれだけの鉄管を持ってこれたものだな」
 金属管を指で弾いて、リクが感心したように言った。頬の傷以外に、木立の枝先でいくつも小さなすり傷が生まれている。
「賢者が、ゴヤの街の東に廃工場があるからそこに行け、って教えてくれたって聞いてる」
「廃工場だと! よく使えるモノが残ってたな」
「地下の倉庫は解錠されてなかったって。賢者が教えてくれた通りにすれば、見つけるのは楽だったって話さ。俺が本当に小さい頃だったから、聞いた話でしか覚えてないけど」
「……賢者、ねぇ」
 半信半疑というよりも、九割方信じていないように六本が片頬を歪めた。ひょろりとした体つきから、女のような高い声が洩れてくる。
「アンタを拾ったのも、その賢者だと言ってたよね」
「うん、そうだよ」
「アンタの本当の親、こんなとこまで子供を捨てに来るのは、きっと難儀だったろうね」
 六本! と二代目がたしなめるように短く叫んだ。年齢的にはジュウドより七〜八歳上にしか見えないが、口調には上に立つ者の風情が漂っている。くちびるを尖らせ、六本は肩をすくめた。
「なによう、だって不思議じゃない。村の人間なら、こんな近くに捨ててもすぐにばれちゃうし、ゴヤの人間ならわざわざ林の中に捨てずに村の入り口にでも置いておけばいいんだから」
「俺もそう思ったことあるよ、六本さん」
「ねえ、賢者ってのが、アンタの本当の親なんじゃないの?」
 だが、その問いにジュウドは笑って首を振った。
「違うよ、それはない。無理無理」
 あまりにきっぱりとそしてとても愉快そうに否定されて、六本は目を丸くした。それは、他の三人も同じことだった。
「今日、賢者がいればすぐにわかるよ。滅多にいないんだけど、見ればすぐにそういうんじゃないってわかるから」


 ジュウドが賢者と初めて顔を合わせたのは、五つになったばかりのときだった。泉からの水路が完成し、それに伴い道がそれまで以上に踏みかためられ、迷わずに子供でも辿りつけるようになったのだ。
 水の流れの物珍しさに誘われ、ジュウドは遡るように泉に着いた。そうして賢者に会った。
 それまで知っていた大人たちとはかけ離れた外見と雰囲気を持っている男が、泉に立っていた。これが養い親たちのいう賢者なのだと、ほんの子供であったジュウドにもすぐに理解できた。
 これが自分を拾ってくれたひとなのだと思いだし、ジュウドは礼を言うべきかどうかわずかに逡巡した。しかし、賢者はジュウドの思惑などまるで意に介さないように、冷えた視線を下ろすだけだった。
「大きくなったな」
 賢者はジュウドに一瞥をくれたのち、そう言った。
「だが、まだ幼い」
 子供であることが悪いことのような気がして、ジュウドは生まれて初めて自分を恥じた。
「早く、旅に出られるようになるがいい」
 だからジュウドは、いつかどこかに行かなければならないと思っている。


「もうすぐ、泉だ」
 先頭を行くジュウドが、木々が途切れる先を指差し告げた。うなずきながら二代目は、外から見える林の規模と、集落から泉への距離が一致していないのではないかと思った。多少の蛇行はあったが、一時間もかからずに林を抜けきってもおかしくないはずだった。
 もちろんそんなことはさして珍しくはないことも、彼は知っている。伝説にある神経塔ほどではなかろうが、それ自体が意志を持つように変容させる場所はいくつかあるものだ。
 そしてそういった場所では、異形が徘徊していることが多い。
 すぐ後ろにいた六本が、二代目の肩を指でつつき薄いくちびるを持ちあげた。
「今回は、イケそうね」
 男たちはそれぞれの仕草でうなずいた。同時に、剣をくるんだ布を完全にほどき、それまで以上に異形を察知する感覚を鋭敏にした。


 林を蓋する葉や枝々が、そこだけ丸く切りとられていた。泉は大人が三人手を繋いで取りかこめるほどの大きさで、その中心は沸きだす水で常に微かに盛りあがっている。
「賢者は、今日はいないや」
 泉を覗きこみこんだジュウドが、振りむき申し訳なさそうに言った。つられるように覗いた六本が、短く口笛を吹いた。
「思ってたより、ずっと深くてきれいじゃない。それにどこまでも明るい」
 左手を泉に浸し、リクは怪訝な声を上げた
「これだけ水量があって、溢れたのが小川にもなっていないのはおかしいな」
「ん? 水路を作ったからじゃないの?」
「いや、それなら跡があるはずだ。それにそもそも小川に沿いに村ができているだろう」
 リクが周囲を見渡し、跡がないことを確かめて言った。道すがらずっと無言だったケイビは、集落とは反対側に位置する林の奥を用心深く眺めている。
 リクは泉を覗きこんだまま、泉に手を浸し水の匂いや味を確かめていた。
「あの娘が言っていた泉の奥というのは、あちら側になるのか?」
 腕組みをして二代目は林の奥を睨みつけた。男たちの中でいちばん小柄で年若かったが、行動の決定権を持っているのが彼だった。
「そう。クエンとこのおばさんは、秋に白胡桃の実を採っていて奥に入っちゃったんだ」
「お前は行ったことがあるか?」
「ないよ、二代目さん」
 少し怒ったように、ジュウドは二代目を見上げた。
「賢者も行くなっていってるようなとこ、入れるわけないよ」
「よほど信頼されているようだな、その賢者とやらは」
「俺にとっても恩人だけど、みんなにとってもそうだから」
 揺るぎのない断定に、放浪の男たちは少年にはわからないように小さく肩をすくめた。絶対的な尊敬に値する者を信じていられるほど、旅も狩りも生易しいものではない。だが十の子供にそれをわかれと詰めよるような、世慣れない真似をすることもなかった。
 陽が傾き、泉を木立の影が覆いつくす。
 ベルトに挿してあった透明な水入れを外し、二代目は泉につけた。口まで充填されたのを確かめ、うつむくように瞼を伏せ古めかしい詞をくちびるに乗せる。続くように他の仲間たちも唱和を始めた。
 難しさに詞の内容がわからないジュウドにも、それが力をもったことばであると察せられた。
 詠唱を終え、落ちつかないジュウドの視線に気づき、二代目は苦笑した。
「ただのまじないだ」
 あやすように告げ、水入れを腰に戻す。なんの? そうジュウドがたずねる前に六本が陽気に宣言した。
「じゃ、下見も終わったことだし今日はこれで退けましょ。日が暮れたら、百戦錬磨のあたしたちだって辛くなるし」
 二代目が無言でうなずき、男たちはもと来た道へと足を向けた。リクが道案内を促すようにジュウドの肩に手を置く。
 自分の役目を思いだして、小走りに男たちをすり抜けジュウドは先頭に立った。いちどだけ振りかえったが、泉はただ清水を涌かせ吐きだすばかりであった。


 足音も消え、人影も木立に隠れたとき、泉の上に白い影が立った。おぼろな輪郭のまま、影は彼らが去った方向を凝視する。
「……暗視の祝詞か、そんなものを知っている者がまだいようとはな」
 つぶやきが大気に溶けるとき、影もまた吸いこまれるように泉に消えていった。


 翌朝、日の出とともに男たちは動きはじめた。支度を整え、昨夜の打ち合わせをもういちど確認する。出立しようとそれぞれが立ち上がったとき、扉が開きジュウドが顔を出した。
「朝飯、まだ用意できてないけど、もう行くの?」
「仕方あるまい。俺たちは、食事目的でここに来たわけじゃない。異形狩りが優先だ」
「パンだけなら持ってこられるよ。あまり残ってないけど」
 断ろうとした二代目より先に、六本が大げさに笑みを浮かべて答えた。
「えぇ、そうなの? ぜひお願い」
「わかった。待ってて」
 得意そうに頬を上げて、ジュウドは顔を引っ込めた。駆けだしていく音が、小屋の中にも届く。
「……だって、手持ちの食料少なくなってるのは本当のことでしょ。私は時間より体力のほうを惜しむのよ」
 睨む二代目に、悪びれもせず六本はすました顔でいた。そのやりとりなど知らぬはずだが、ジュウドはすぐに二つ折りにした平パンを抱えて戻ってきた。
 薄い黒砂羊のチーズを挟んだパンは、それぞれに二枚、ジュウドの分も含めて十枚ある。
 枚数に怪訝な色の瞳で男たちはジュウドを見つめた。ジュウドはその視線に臆せずにこりと笑って、林に続く道へと顔を向けた。


 道案内はもういいと口々に言われても、ジュウドは戻ろうとはしなかった。勝手に先頭を切り、小道を進む。
 木々や草はうっすらと露を乗せていたが、衣服や顔を濡らすほどではなかった。泉までの道すがらにパンを囓り、水路を滑る水で喉を潤した。
 だが男たちは終始無言だった。最初、色々と話しかけていたジュウドも彼らの緊張を目の当たりにし、ただ先導し道を行くことに専念した。
 泉は昨日と変わらず、静かにただ清水を涌かせている。
 二代目はジュウドに村に戻れと告げたが、最後までついていくと、ジュウドは頑として動かなかった。足手まといだとはっきり告げられても、口をへの字に曲げ聞こうとはしない。
「あんた、森の奥に行ったことないんでしょ。案内にもなりゃしないわよ」
「でも俺……」
「どうせ、あたしたちやること見張ってろって言われてるんでしょうけど、ガキが死ぬの嫌いなのよね。帰りなさい」
 言いかけたことばを飲みこんで、ジュウドはただくちびるを噛んだ。
 見張るために行きたいのではなかった。ここの外でのことが知りたいだけだった。いつかどこかに行くときのために、それは持っておかねばならない知識だとジュウドは幼いなりに考えていた。
「お前はここで待ってろ」
 それ以上の反論は許さないと内々に含めて、リクがジュウドの肩を押しもどす。抗議するように顔を上げたジュウドだったが、腰に下げられた剣の一本を手渡された。 一見剣の形をしているが、それに刃はなかった。数は少ないが集落にある武器とは大きく違っている。細かな突起がちりばめられた棍棒にむしろ近く、ジュウドはこれで怖ろしい異形に立ちむかえるのかと、戸惑いを隠せなかった。
「これは軽い。もし異形が来ればこれで叩け。そしてヤツらがひるんだ隙に逃げろ」
「リク、剣を渡すな」
 二代目の叱咤に、リクは一瞬怯んだ。使いこまれたようすの剣は、初めて持つジュウドの手にも不思議にしっくりと馴染んだ。
「……どのみち腐食が進んで投げ当てにしか使いようがないやつだ」
「隼とはいえ子供の手には余る。剣に拘れば、むしろ危ない」
 そう言いきって、二代目は腰のベルトから乱暴に水入れを取った。ジュウドを手招きし、剣を取りかえし代わりにそれを握らせる。
 ガラスの冷えた感触に、ジュウドは身がすくむのを感じた。
「余裕があるなら、中の水を異形にかけろ。余裕がないならそのまま管を投げつけろ。それで逃げる隙が生まれるはずだ」
「これ、大事な物じゃないの?」
 使いこまれた水入れは蓋の金属部分が摩耗し角が丸くなっている。掲げるように腕を上げ、ジュウドは二代目を見上げた。
「後で、ゴヤの東にあるという廃工場の場所を教えてくれればいい。よし、いくぞ!」
 その号令を合図に、四人は林の奥へ足を踏みだした。ジュウドの存在を忘れたように、いちども振りむくことはなかった。


 ジュウドはずっと彼らが向かった方向を凝視していた。なんどか足を踏みだそうとしたが、やはり林が始まるところから先には行くことができない。
「どうして行きたいと思う」
 声に、ジュウドは反射的に首をすくめた。泉の上には、初めて目にしたときと変わらない姿で賢者が腕組みし立っている。
「賢者、来てたの」
「お前が眼球の液をもらう辺りからな」
「……がんきゅうの、えき?」
「それだ」
 尖った形のよい顎をわずかに動かして、賢者はジュウドが左手に握りしめる水筒を指した。
「でもあのときは、そこ──」
「状態が安定していなかったので、姿は現せなかったがな」
 ジュウドの疑問を先取りして、賢者は素っ気なく答えた。そうしてジュウドをじっと見下ろした。
「奥に、行きたいか?」
 いつもと変わることのない声だったが、ジュウドはその一音一音の鋭利さに皮膚が裂かれるような感覚にとらわれた。
「わからない。でも賢者は行くなって言うよね」
「異形を怖いと思わないのか。会えば死ぬかもしれん」
 死のことを、ジュウドは思った。彼にとって死は、いなくなることと同意だ。いることで生まれる喜びや楽しみがあるのは知っていたが、恐怖や悲しみもまた同様に生まれる。ならば、いるもいないもさほど変わりない状態のように、ジュウドには思える。周りのみんなほどに、少年は死に怯えを感じたことはない。
「この世からいなくなるのって、そんなによくないことなのかなあ?」
 ジュウドのつぶやきに、賢者はなにもことばを返さなかった。
 泉の静けさを破るように、怒鳴り声と駆けまわり地を蹴る音が男たちが消えた方向から届く。それは小さくはあったが聞き逃すほどではなく、また徐々に大きくなってきていた。賢者から視線を外し、ジュウドは森の奥に顔を向けた。
「始まったか」
 その後に起こる光景をすでに知っているかのように、賢者の声は泉を囲んだ空間に冷徹に響いた。


 木々のあいだを赤い生き物がすり抜けるのをジュウドは見た。
「赤跳ねだ!」
 初めて目にする異形に、ジュウドは目を奪われた。人間にはとても無理な速さであちこちから姿をのぞかせ、追跡者を易々と翻弄している。
 右へ左へと追いたてる声は方向を変える。時折細い奇声が嘲笑うように挿入される。
 男たちの強さを滲ませる身体を思いうかべ、ジュウドは息を呑んだ。
「四対一なのに……」
「早合点するな。四対一ならば勝てる」
「でも、あんなに!」
 見上げたジュウドの双眼に、賢者は目をすがめて笑う。
 そのとき、それまで余裕綽々だった奇声に初めて切実な叫びが混じった。
「さあ、反撃だ」
 人間ならば悲鳴と呼ばれただろう奇声は、二回甲高く響きわたった。逃げ場を探すように、赤跳ねが同じ場所で向きを変えながら飛びはねている。
「誘い込んでたのか」
「リグロの行動は比較的単純だ。対峙するのが初めてでなければ、対処法などいくらでも考えられる」
「……すごいや」
 ジュウドが洩らす感嘆のつぶやきを、賢者は無下に否定した。
「問題は──」
 後方への注意を促す声が、同時に上がる。
「四対一とは限らないことだ」


 囲いを破った手負いの赤跳ねが、自分を見たようにジュウドには思えた。そしてそれは思いこみではなく、次の瞬間、己に向かう狩人を振りきって赤跳ねはジュウドを目指して向かってきた。
 賢者が腕組みをとき、水路沿いに集落へと続く道を指した。
「来るぞ。お前は逃げたほうがいい」
「でもっ!」
「さもなくば、素手で戦うか?」
 静かな叱咤に、ジュウドは大きく首を振り違うという意志を示した。
「賢者、……俺、なんでだろう、見ていたいんだ」
「なにをだ?」
「村で起こらないこと。俺の知らないこと……」
「お前の死は、私の望みではない」
 そう告げた賢者の顔がわずかに歪むのをジュウドは見てとった。だが、それが哀しみという感情から生まれた表情だと、窺いしるには変化はわずかすぎた。
「ここにいたら、俺死ぬ?」
「お前次第だ」
 明言を避けたのは、自分に気を使ったせいかとジュウドは思った。身体全体が震えている。しかし恐怖によるものではない。心からの笑顔で、ジュウドは賢者を見上げた。
「賢者、さっき言ったっけ? 死ぬのは俺、あまり怖くないんだよ」
「ならば好きにしろ。逃げるにはもう遅い」
 穏やかな泉の周囲に、葉や枝を蹴散らせて赤跳ねが飛びこんできた。


 泉を挟んで、ジュウドと赤跳ねは向かいあっている。赤跳ねが右に寄ればジュウドも右に、左に寄れば左に移動した。
「お前の力では、三発は殴らなければ倒せん。だが、その間にお前も攻撃を受ける。エメラは二発でああなった」
 クエンの母の不自由な足を思いだし、ジュウドは距離を縮めようとする赤跳ねの足元を注意深く眺めた。
 体液を滴らせた赤跳ねは、頭部と腹部に裂傷を負っていながら飛びはねる調子を変えない。それほど大きくないんだな、とジュウドは思った。背丈は彼よりも小さく、また足ではなく丸まった尾で移動するせいか身体つきも細かった。
「賢者?」
「なんだ?」
「死ぬのは別に怖くないけど、痛いのはやっぱりイヤかもしんない」
 視線はずっと赤跳ねから外さなかったが、ジュウドは賢者が笑うのを感じた。横飛びに泉を廻りつつ、手の水筒をお守りのように強く握りしめる。
「時を稼げば、彼奴らが戻ってくる」
 すました耳に届くのは、赤跳ねの地を蹴る音と、林を行き交う指示と足音だった。そして後者は次第に泉へと近づいてくる。
「俺逃げてないから、六本さんに怒られるかも」
 いや、と賢者はジュウドの軽口を否定した。そして低い声が続きを奏でた。
「怒声は私にこそ向けられるだろう」
 追われたもう一体の赤跳ねが姿を現れた。その両脇から挟むように剣を手にした男が続き、林との境に最後の人影が立った。


 泉の周囲は、平坦ではあるが広くはない。逃げ場を失った赤跳ねは滑りこむような攻撃を加えるが、障害物の多い林と違い存分に剣を触れる状態では男たちのほうが優勢だった。
 呻り声をケイビが上げた。大股に低く踏みこんで、左下から剣を振りあげる。ケイビの声をジュウドは初めて聞いたと思った。
 一瞬の間をおいて、赤跳ねがその場に崩れおちる。とどめを刺すようにケイビは、天を指した剣先を痙攣する赤跳ねに叩きおろした。
「油断するな!」
 息をつくまもなく二代目が叫んだ。もう一体の赤跳ねが、同族の死体を跳びこえて、林へ逃げこもうとする。
「ハッ、待ちな!」
 爪先立ちに駆けだし、頬に余裕の笑みを浮かべ六本が後を追う。
「待て、六本」
 不意に、二代目が六本を呼びとめた。なによう? と不満げに振りむいた六本の顔が凍る。男たちはそれぞれ手の剣を握りなおし、ジュウドを見つめた。
「そいつから離れろ……」
 自分に向けられたことばだと思わず、ジュウドはただきょとんと見つめ返すだけだった。彼らは険しい顔のまま、視線をジュウドから泉の中心に浮かぶ男に移した。
「上級天使、まだ、いたのか」
「私をそう呼ぶなら、お前たちもまた同じ根から発生したものだろう」
 二代目の外套の左腕には、奇妙なシンボルが縫いつけられている。それが賢者の白い上着の正面にある飾りと同じ形であることに、ジュウドはようやく気がついた。
「……賢者?」
 つぶやきに震えが混じるまま、ジュウドは賢者の無表情な横顔を見上げた。
「違う。ジュウド、その男から離れろ。そいつは賢者なんかじゃない。そいつは上級天使だ。いまはもうない白金の髪と紅の瞳、偽りの翼、白色の上着にマルクトの印、どれほど時が移ろうと間違えるものか。その男が、世界を歪めた張本人だ!」
 怒声を浴びせて二代目は、手の剣を力任せに賢者に振りおろした。自分がされたように、ジュウドは全身を強ばらせ両目を閉じた。
 だが耳にしたのは、空を切る音だけだった。
「この姿の私に斬りつけるとは、直接知る者ではないな。もっともその若さでは当たり前のことか。さしずめ親にでも教えられたか?」
 剣の流れに併せて、賢者の姿は揺らいだ。しかしそこには傷も血も生まれはしない。哀れむかのように、賢者は双眸を細めた。悔しげに歯噛みをして、二代目は剣を構えなおす。
「賢者……。賢者は本当は、悪いひとなの?」
 驚愕を露わにしたままのジュウドに、賢者は視線を下ろした。その変わらない表情に初めて、ジュウドは頼もしさではなく恐怖を感じた。握りつぶしかねないほどの強さで、水筒を両手に握りしめる。
 だが返ってきたことばは、ジュウドの問いかけに対するものではなかった。
「ジュウド、泉に潜れ」
 賢者のことばを、ジュウドは初めて素直に聞くことができなかった。


 笑い声だった。
 幼児ほどの身長の金色の生き物が、奇妙な踊りでこちらに歩みよってきていた。その片目は縫いつけられたように塞がれている。
 笑い声がせわしなく向かってくる。
 林の奥にいるのは赤跳ねと寂しがりだと、戒めを込めて教えられていた。ジュウドはあの頭の大きな人形が寂しがりだとわかった。
「リク、後ろだ」
「ジェィイロム!」
 体当たりされたリクがよろけながら剣を振った。力無く乾いた音が、寂しがりの側頭部から響く。
「ここに入れ、ジュウド」
 ジュウドの目にはとても強いとは思えない寂しがりを睨みつけ、賢者は声高に命令した。
 寂しがりと男たちと賢者のそれぞれに、ジュウドは視線を巡らせる。これからなにが起こるのか、まったく想像がつかない。
 再び、剣が寂しがりを叩く音が上がった。囲まれた寂しがりが、それまでのゆらめくような動きとは別の行動を始めた。駆けだすように足を猛烈に動かしている。
「ジュウド。来い」
 右腕を伸ばし、賢者は泉の脇に立ちすくむジュウドを掴もうとした。紅い両眼に自分が映るのを見た。その瞳の中にあるのは、切実な願いだけだった。
 寂しがりの頭が紅潮し肥大していく。男たちが諦めたように背中を向け逃げだそうとする。
「ジュウド!」
 賢者の右手がジュウドの身体をすり抜けた。知恵や知識は与えても、直接触れあえない存在であるのが、この泉を知る者たちの共通の理だった。なにより賢者自身が、それをわきまえ傍観者として現れていた。
 だがいま、賢者はすり抜けた己の手を、後悔するように凝視している。
 それでジュウドは覚悟を決めた。固く目をつむって、地面を蹴る。
 泉が大きく飛沫を上げるとともに、寂しがりの頭部が破裂した。


 ジュウドに限らず、集落の人間で頭の先まで水に浸かったことがある者などいない。祭りや特別な行事の前に、膝ほどに溜められた水を浴びるのがせいぜいだった。初めての体験に緊張で息を止めたまま、ジュウドは深く沈んだ。
 閉じた瞼に白い光が届いた。圧迫されながら沈んでいく感触とともに、光は強さを増している。薄く瞼を開き、ジュウドは光の源を探した。水底に青白い岩が転がっている。
 直接光を目にして、ジュウドはそれを知っていることを思いだした。かつてあの光る岩をすり抜けて、この地にやってきたのだ。
 どこから? それは覚えていない。
 どうやって? それも覚えていない。
 ただあの光る岩の向こうに、自分を知る人間がいるはずだった。確信はない。希望に過ぎない。だがそれを知るために、ジュウドは光る岩へと手を伸ばした。
 息が続くのはそこまでだった。
 肺と鼻に水が押しよせ、ジュウドは苦しさに水面へと必死にもがいた。


 助けるように伸ばされた手をたぐり、ジュウドは泉の淵に腕を乗せた。口からは水がいつまでも吐きだされるような気がする。
 咳と涙が治まり、ようやくジュウドは周囲の惨状が目に入った。彼を助けた手は、腰と胸に大きな穴を開けこときれた、リクのものだった。
 投げだされた腕を伝い、血が赤く泉に滲みている。
 二代目は剣を支えにして、必死で立ち上がろうとしている。右膝から下が半分吹きとび骨が出ているのに、気がついていないようだった。
 仰向けに寝転がるケイビは、ぴくりとも動かない。ただ、上掛けをかけられてたように身体の全体が赤く染まっていた。
 さっき逃げた赤跳ねが、戻ってきたのか愉快そうに跳ねている。唯一立っていた六本は、剣もなしに赤跳ねの攻撃をかわしている。
 賢者はただそれらの光景を眺めおろしているだけだった。
「どうにかできないの?」
 依頼でも嘆願でもなく、悲鳴のようにジュウドは詰問した。
「私にはできん。するなら、お前の他にない」
 六本が、己の六本目の指をねじ切った。赤い血肉の中心に、骨が白く通っている。ずっと必死の形相だった六本が、くちびるの端を持ちあげて不適に笑った。向かってくる赤跳ねに、指を投げつける。
 だがそこまでだった。次の一撃を繰りだす前に、赤跳ねのいびつに小さな両腕が六本の胸にめり込んだ。骨の折れる音が鈍く聞こえた。仰け反って天を仰ぎ、六本の口から血の固まりが吹きだすようにこぼれていった。赤跳ねは勝ち誇ったように、そのまま仰向けに倒れていった死体の周囲を飛びまわる。
「ジュウド、いまならお前の力でもリグロは一撃で倒れる」
 岸から這いあがろうとするジュウドに、賢者は淡々と助言を告げる。
「死骨持ちの置きみやげだ」
 賢者が悪しき存在なのかどうか、ジュウドにはわからない。それでも頭によぎることばを、吐きすてるように叫んだ。
「賢者は人でなしだよ!」
 向かってくる赤跳ねの足を払うの瞬間を見計らって、ジュウドは力任せに拳を突きだした。


 殴ったというより、当たったというほうが正確だっただろう。あっけないような感触と、次いで小さな衝撃がジュウドに返ってきた。
 視界から消えた赤跳ねを捜して周囲を見渡す。ケイビが倒した赤跳ねは、泉の位置を変えず死体を晒している。
 見当たらない赤跳ねの代わりに、ジュウドの目の前には小石ほどの白い球体が頼りなげに浮かんでいる。
 なにが起こったのか、ジュウドにはわからなかった。わかっているのは賢者だけだった。
「触れるがいい」
 球体に手を差しのべつつも、ジュウドはそれに触れるのをためらった。賢者の言うがままに、もう彼は動くことができなかった。だが球体の小さな光は泉の底にあった光る岩と同じ色をしている。
「ジュウド、触れてやれ」
 放つ光は徐々に小さくなりつつある。慌てて触れた瞬間、球体はジュウドの指先に溶けるように吸いこまれた。
 思わず洩らした声は、悲鳴と呼ぶには幽かすぎた。だが感嘆といえるほど安らぎに満ちてはいない。指先から全身を巡った違和感に身震いしながら、ジュウドは赤跳ねを支配していた思考のかけらをその身に納めた。
 自分の中にそんな異質なモノをしまう場所があることに、彼はなにより驚愕した。
「浄化だ。いまはもうお前だけの能力だ」
 賢者の感慨に満ちたそのことばの、意味を問いただす余裕もなかった。


 呻き声にジュウドは我に返った。杖代わりの剣を握る力も失われた二代目が、斜めに崩れおちた。
 意味のあることばはもうない。薄く開かれたくちびるから、小さな唸りが断続的に洩れるだけだ。
「二代目さん!」
 駆けよるジュウドにも、二代目がかなり危ない状態だとわかった。頬だけでなくくちびるまでも、血の気が失せている。
「楽にしてやれ。剣ならばそこにあるのを使うがいい」
 楽にするの意味を理解するのに、ジュウドは数秒かかった。見開いた目で賢者を凝視するが、なにも言えない。
「お前がすれば、それもまたバロックから解放される」
「……バロック?」
 初めて耳にすることばだったが、ジュウドのひどく心が波打つのを感じた。恐怖と郷愁がないまぜになり、つぶやいたあともくちびるの震えは止まらない。
「そう、バロック。それなしでこの世界は生きられない。だがそれを持つ限り、ここより他に生きる場所などない」
 賢者は自嘲するように片頬をわずかに持ちあげた。
「嫌だ。それってこのひとを殺せってことだろ? そんなのは嫌だ。嫌だ!」
 激しい拒絶に、賢者は眉をひそめ小さく溜息をついた。
「死はそれほどよくないことではないと言ったのは、お前自身だったぞ」
「俺はいい。俺が死ぬのはいいんだ。でも」
「時期や方法にこだわろうと、ひとは必ず死ぬ。浄化してやれ。それこそが救済だ。お前がお前である限り、浄化から逃れることはできん」
「嫌だ! 賢者助けてあげてよ。お願いだから、賢者」
 二代目の脇に転がる剣をジュウドは両手で握った。柄は血糊で粘り離すことが容易ではないほど手に密着する。切っ先を賢者に向け、ジュウドは剣を構えた。
「この私に、それは効かん」
「賢者、頼むよ」
 実体ではないことなど百も承知だった。しかしジュウドはそうするよりほかになかった。それを二代目に振りおろすことは考えられなかった。
「──もういい、ジュウド。終わった」
 賢者のことばに、ジュウドは後ろを振りむいた。苦悶を浮かべたまま、二代目はこときれていた。
 呻き声も上下する胸もない。弛緩し、横たわる骸と化している。
「賢者、助けて……」
 庇護を求める弱々しい声に、賢者はなにも答えなかった。


 霞むようにぼやけた太陽が、天頂からようやく降りはじめている。まだ昼であることが、ジュウドには信じられなかった。風はなく、血の匂いが辺りに充満し緩やかに沈殿していく。
「初めて会ったときに賢者、早く旅に出られるようになるがいい、って言ってた。だから俺は、ずっと荒野の向こうに行きたかった。行くつもりだった」
 それは今朝までずっと抱いていた夢だった。それがいかに幸福な時間だったか、ジュウドは胸に広がる苦みを自覚しながら思った。
「いい機会だ。軽い剣と外套を貰っておくがいいだろう。死者には必要がない。そして行け」
「行け、ってなに。賢者は俺をどこへ行かせたいんだ?」
「神経塔だ。お前の為すべきことはそこにある」
「俺になにをさせたいんだよ。賢者、賢者は俺にさせたいことがあって、それで俺によくしてくれたの? 道具ぐらいにしか思ってなくて、それで、俺に……」
 人でなし、人でなし、とジュウドはなんども罵った。もう賢者を見ることすらできず、剣を握りしめそのままうつむいた。背中と顔が熱く、ともすれば立っている力さえ途切れそうになるのを必死でこらえる。
「ジュウド、お前はひとりだ。たったひとりしかいない。お前が生まれたことには意味がある。きっと意味がある。私を憎むのはかまわん。それを糧にして、神経塔に来るがいい。頼む。泣くな」
 地面に吸いこまれる己の涙をジュウドは見なかった。泣くなと最後に告げた声こそが、泣いているような響きであったことをジュウドは聞かなかった。
 それでも自分が旅立つだろうことを、ジュウドは知っていた。
 泉に浮かんでいた水筒が旅立ちの支度を後押しするように、ジュウドの前に辿りつき止まった。