七才の誕生日を迎える二日前まで、僕たちは神と呼ばれていた。
マルクト教団を設立した男は、元は歴史の教師だったという。中世のさる王国のありふれた興亡について語っていた最中に啓示を得た彼は、感極まった叫びを残し教壇から走りさった。そしてふたたび戻ることはなかった。行きついた先で、造り物の羽根を背に彼は神を探しつづけた。自らを上級天使と名乗り、賛同する者たちを教育し統制し献身させることに成功した。ただ残念なことに、神の存在を霊的に知覚していながらも居場所の確定をどうしても得られず、僕らを代理の神とすることに決めた。
理由はわかっている。僕らが緩やかに成長していたからだ。
ひとつの身体にふたつの魂を持って生まれたことは、奇跡だったかもしれないし、神罰だったかもしれない。複数の人格を持つことは、珍しくはあったが例のないことではない。僕らがそれらと違っていたのは、ふたつの魂がひとつの時間を分けあっていたために、身体の成長も半分になってしまったことだ。
主観的な時間の流れが客観的な時間の流れを歪めてしまったことは、僕らが意識してしたことではない。同じ身体のように見えて、実は違う身体だったのかもしれない。産まれたときから腰にあった模様のような痣が起きているほうに合わせて変化していたのは、そういうことの顕われだったのだろうか。
僕らが分離されたのは七才の誕生日のことだ。客観的な時の流れで言えば、生まれてから十四年たった日のことだった。
分離されてからは、時間に客観も主観もなかった。
初代の上級天使は教団を組織し、神の存在を証明することにすべてを捧げていた。彼が僕らを必要としたのは、教団の求心力を維持するためだった。
それを恨んだことはない。初代は僕らによくしてくれたし、チェスを最初に教えてくれたのも彼だった。便宜上の名前を僕らそれぞれにくれたが、それで僕らが得たものは互いに成りすます技術だった。それでも腰の模様は嘘をつけなかったので、そのうちに僕らの衣服には必ず穴が開けられた。おかげでよく腹を冷やしたものだ。
ラングとパロール、それが僕らの名前だった。どちらがどちらだったのかは、いまはもう覚えていない。僕らは互いに名前など必要なかった。僕は兄で僕は弟だった。
神と呼ばれた日々は退屈だったが、神と呼ばれる立場でなくともそれは変わらなかったように思う。
僕らは教団で生まれた最初の子供だ。両親はともに信者で、広げた掌ほどの偽翼を背中につけていたそうだ。出会いも婚姻も生殖も出産もすべて教団のなかで行われ、僕らが産まれた。
教団の外を僕が知ったのは、分離され切りすてられたときだ。
指示したのはふたりめの上級天使だった。
本物の神を発見したのは作業天使のひとりで、その既成事実をもって彼は初代を追放し僕らを偽神の役目から解放した。そして発見の翌日には上級天使を名乗り、その翌日には僕らを分離した。
剥ぎとられた皮膚と肉は、銀の盆のうえで五分ほどのたうちまわっていた。僕はそれを見ていたし、僕自身がそれをしていた。そうして腰の模様は消えてしまったが、苦悶のような傷が新たに生まれた。
神と呼ばれていたために、僕らには偽翼が与えられていなかった。教団では偽翼がなければ、居場所も食事もままならない。切りすてられた僕には関係ないものだが、七才になったばかりの残された僕には必要なものだった。
偽翼も階級も与えられずに過ごしたそれからの九年間を、僕らはだれでもない存在として生きていた。神と呼ばれることもなく、ラングやパロールと呼ばれることもない。そして兄も弟もない。
ふたりめの上級天使は保護という名目で、動けない神を独占する場所の建設に取りかかった。だが彼はその完成を見届けることができなかった。 それでも神を神として扱っていた彼は、神を利用することを考えた若い天使にその地位を奪われたのだ。
新たな上級天使が誕生した。
その少し前のことだ。
呼びかけられたような気がして顔を上げた。見慣れない、青年と少年の端境期にあるような不安定さを残した相貌がそこにあった。
「神と呼ばれていて、どういう気持ちだった?」
くちびるに薄く笑みを浮かべて、彼は横に腰を下ろした。豆をむく手を休めずその質問を無視した。
「じゃあラングとパロール、どちらが君の名前?」
答えようのない質問に、首を横に振るしかなかった。古参の信徒さえ口にのぼらせないことを、彼は平気で声にした。厨房倉庫の隅だからかと思ったが、純粋に興味だけを宿らせた二個の碧眼にそのような臆病さはなかった。
「……昔のことばかりよく知ってる」
「調べたからね」
「暇なんだ」
「過去は未来と繋がっている。歴史は重要だ」
「会うのは初めて?」
「十日ほど前にここに来た。神に用がある」
敬意の感じられない声音に、爪の奥まで深緑に染まった指が止まる。
「……あなたは上級天使になるんだ」
驚いたように目を見開き、それから立てた両膝に頭を乗せるようにして彼は笑った。
「そんなことは口に出すべきじゃない。預言者と呼ばれたいなら別だが」
大人びた笑顔を見せる彼に、好ましさと脅えの両方の肌触りを感じた。 預言者などと呼ばれたくはなかったので、だれにも言わなかった。だが、一年もしないうちにそれは事実となった。
新しい上級天使は僕に偽翼と階級を与えた。僕らはもう教団の外に出ていくことも可能な年齢になっていたが、あまりに外の世界を知らなかったためにそれを考えつくことすらできなかった。
切り離された僕の持つ知識は、残された僕に伝えるすべがない。
神の退場を促す企ては静かに進行しており、もちろん僕もその片棒に手を添えていた。
やめろという声は、僕には届かない。
そもそも僕には、声を上げる器官がない。
新たな上級天使は若さに似合わず豪胆にして慎重、そして怜悧だった。彼の意図を正確に把握するものはほんの数名で、その中に僕は入っていなかった。
宗教家というよりも科学者だと、だれかが言っていた。信仰なき科学者には善悪の境界がないと、別のだれかが嘆息した。
僕はなにも言わなかった。ただ、あのときにふと感じた脅えを忘れなかっただけだ。
密やかな声が十を越したころ、上級天使の企みはおぼろげな姿を現わせた。彼は宗教家でなければ科学者でもなかった。そして卑小な野心家でもなく、それゆえに事態は深刻だった。
阻止を望む意志だけが、密やかな声をひとつにまとめた。神への敬意よりも上級天使への敵意が革命の源だった。
革命が教団を変えてきたことを僕は知っている。
失敗した革命に決まってある要因は、大衆からの不支持だ。教団を掌握していたのは上級天使のほうであり、最初から最後まで僕を含めた十二人は反乱分子でしかなった。
神を誤解していたのも我々のほうだった。
神に絶対的な力を求め、またそれによる逆転を望んだことで、我々の敗北は決定していたのだ。
ダァバール、それこそが敗因だった。
神のことばはひとのことばとは違う。その正確な意味を知る者は、なかった。
「無駄なことを考えているようだな」
突然降ってきた声に、ゆっくりと顔を上げる。階段の手摺り越しに白い偽翼と冷たく整った相貌が立っている。
反射的に返した謝罪に、彼は薄く笑った。
「私も忙しい。処分や人員整理はなるべくなら避けたい」
上級天使とことばを交わすのはあのとき以来だった。近づく足音に身体のいたるところが緊張するのがわかった。
「私はお前を気に入っている」
目の前でそう告げて、彼はすぐに視線を移動させた。その先にあるのは紅に淡く発光する感覚球だ。
「無機物は転送されるだけだが、神の端末に人間の精神が耐えられるかどうか、興味深いと思わないか?」
くちびるの端に浮かぶ冷笑から、魅入られたように目をそらすことができない。
「いずれ試すこともあろう」
返答を待たず、彼は視線を戻し紅の手甲に覆われた手を持ちあげた。白い指が彼とは違う黒色の前髪を弄ぶように摘んだ。
「証拠が欲しいか? 私がお前を気に入っているという証拠を」
「……それを求めているのは他にいる」
「与えているさ。有能に働くかぎり、惜しむつもりはない」
「いらない」
強い拒絶が、驚きや畏れから生まれるとはかぎらない。
「面倒がなくていい。お前を気に入る理由のひとつだよ」
どうしてそんなふうに笑えるのだろうかと、反抗に似た防御を忘れ思った。まるで邪気のない優しげな微笑みだったが、前髪に触れた指先からは痛いほどの圧迫感が忍びもれていた。身体の節々が凍るように硬くなった。
「余計なことを考えるな。お前とてあれに恨みのひとつもあるだろう?」
あれ、がなにを差すのか考えようとした一瞬に、上級天使は身を翻しまた階段を昇っていった。
遠ざかる足音に節々の緊張は徐々に解かれていったが、腰の傷痕だけは断続的な悲鳴のような疼痛を繰りかえした。それがようやく収まったときに、やっと深く呼吸することができた。
上級天使が反逆の企みを把握していたことは間違いない。けれどもすべてを知り、理解していたわけでもない。
過去もいまも、僕は神を恨む気持ちを持ちあわせてはいない。
見上げた先に存在するのは、縛めに繋がれた哀れな存在だった。
神を直接見るのは初めてだった。あれが神であるはずないと、僕は思いたかった。
しかし、現実は常に望みを裏切るために存在している。
あれは僕らの姿じゃないか。
声など出ないはずなのに、それは音となり空気を小さく震わせた。
「こいつらを連れていけ。そしてあれは切りはなせ。肉体などいくらでも再生できる。どんなことをしてでもこちらに引きもどせ、必ずだ。急げ」
悲鳴が、存在しない耳を覆いたくなるような悲鳴が、千々にちぎれるような悲鳴が、幾万という硝子が一瞬にして砕けるような悲鳴が、削がれた鼻を探しまわるような悲鳴が、波と千鳥の屏風が青く染まるような悲鳴が、破滅の色を声にしたような悲鳴が、鞄に詰めこまれた火山がたまらず噴火するような悲鳴が、深海に混じった真水のような悲鳴が、天空の星すべてが降ってくるような悲鳴が、溶けた鉛がこぼれんばかりに波打つような悲鳴が、悲鳴が、悲鳴が……。
そんなふうに、恋人を失った神はひとのことばを初めて発した。
世界の意義が世界の外側に存在するならば、僕のしたことは世界を広げたことになるのだろう。ひとのことばを持たぬことは、ひとのことばに限定されぬことと同意だ。
神の領域は最早、ひとの領域となった。
だが彼女が、ひとに堕ちることはない。しかし神に戻ることもない。
「狂うだと? あれも神もとっくに狂っている。なにをためらうことがあるか」
実体のない僕を柔らかな手が撫でていった。探るような動きのあと、落胆の波動が離れていく指から伝わってきた。
「違う……」
声はひとつではなかった。同じ声がいくつにも重なっていた。落胆が収まると、また周囲には嘆きが湧きでた。
あのときに僕は、外に戻らず神のなかにとどまった。神のなかは驚くほどなにもない。その複雑な空洞のなかで、声は絶えるまもなく反響している。
「違う、あのひとじゃない。行かないで。もうできない。どうして? このままいたら。でもいい。耐えられない。どうして? わかっている。埋まらない。元の姿がわからない。どうか消して。どうして? 戻して。どうして、どうして、どうして、戻して、誰を……?」
これと似た空洞を僕は知っている。僕らにあった空洞だ。
僕らが分離されたときも、僕らが身体を共有していたときも、血と肉と骨を除けばそこには互いのほかになにもなかった。
僕らは偽神だった。空洞を維持するために必要なのは互いの存在だけだった。神は空洞を埋めてはならない。神の空洞は世界をしまうためのものだ。ひとはバロックで空洞を埋める。だが神はバロックなど必要ない。
神ならば。
「あれに神を殺させろ。天使銃はそのためのものだ」
「……違う」
触れるたびに落胆し、それが消えるたびにまた触れる。
「会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい」
同じことを僕も思っている。
僕たちも、思っている。
|
|