両親は私がこんな姿で生まれてくるとは、夢にも思っていなかったようだ。恵まれた環境と容姿と頭脳を備えたふたりは、お互いの恵まれた部分に惹かれあい結婚した。そして私が生まれた。私はふたりの初めての欠陥で、そのことがふたりを多いに傷つけた。
 それでも大事な我が子、手を取りあって育てていきます。
 殊勝なことばに対する賞賛は両親を慰めはしたが、私を捨てることができず逆に重荷になった。四年後に弟が生まれるまで、後悔と嘆きが私の子守り歌だった。
 事前の入念な遺伝子審査を経て誕生した弟は、両親の期待通りの存在だったらしい。ふたりは私を忘れ、互いの恵まれた部分だけを備えたこどもを我が子とした。
 金銭的に恵まれた家庭だったことが私の幸運だった。専用の介護人と離れを与えられ、無視されながらも生きることは許された。三個以上の単語を口にするのも困難な、離れから杖なしに外に出る脚力も持たない、そんな状態のまま私は年齢を重ねた。不自由な身体のなかに年相応の知性があることを知っていたのは、私と弟だけだった。


 弟は両親にとって自慢の存在だった。そして私にとっても、それは同じことだった。
 姉がいることを知った日と、姉が不具者であることを知った日は、弟にとって同じだったようだ。一目見て逃げかえった弟は、翌朝白いマーガレットの花束を手に謝罪に訪れた。
 ベッドに身を横たえたまま私は礼を言った。あまり使わない単語なので、なんどかつかえてしまった。
 少し言い争ったらしい。弟の後ろに立っていた母は、不本意そうに眉をしかめていた。久しぶりに会った母は、相変わらず華やかで美しかった。しかし弟にはあまり似ていなかった。そしてまた、記憶のなかの父とも似ていないような気がした。弟は両親のよいところを受け継いだのではなく、さらによくして生まれてきたのだろうと、私は思った。
 そう、私の分も含めて。
 また遊びに来てもいいかとたずねる弟に、移る病気ではないが空気がよくないので来ないほうがいい、という意味のことを私は告げた。
 安堵の息をそっと洩らす母に、私は笑いかけようとして失敗した。


 介護人は雇用主が自分に求める最大のものが、介護人を置いているという事実であることを、理解しているひとばかりだった。おかげで私は自分の身体の使用基準の限界を計ることができた。それがいま役に立っている。
 弟は最初は遠慮がちに、しばらくたってからは毎日必ず私のところにやってくるようになった。おもしろい本が読みたいと言ったせいか、来るたびに違う本を携えていた。
 なんの話をするというわけでもない。離れに閉じこもりきりの私にそうそう話題もない。しかしひとりの生活に慣れていたつもりでも、それなりに退屈だったのだろう。弟が来るのは私の最大の喜びだった。
 弟が私のなにを気に入ったのかは知らない。よく言っていたのは、姉さんがいて嬉しい、ということだったが、残念ながらいまも私にその意味はわからない。街で起こることも母屋で起こることも、私のいる離れには届かなかった。その停滞した世界のなかで、切れ切れのことばを気長に待ちながら、弟はいつも骨の浮きでた私の腕を指でなぞっていた。
 そのうちに足や肩や首も、弟が家を出る前夜には脇腹や背中や胸も。
 そのとき弟は大学に入る直前で、私は縁談のひとつも出てくるだろう年齢になっていた。
 もちろん私に、そんなものはなかった。


 弟が家を出る前夜のことは不思議なくらいはっきりと覚えている。

 もう眠ろうと思った私は、読みかけの本を閉じ枕の脇に置いた。あれは聖杯をめぐる物語だった。神の水を求めるさまざまな行動は奇跡よりも混沌をもたらしていた。途中に、教条的! と弟の字で皮肉めいた書きこみがあった。
 夜の静寂のなか眠りを待ちつづけるのは、いつか訪れるであろう死の訓練だとあのころは信じていた。
 声に意識を戻すまでのことは知らない。
「姉さん……」
 毛布のうえで組んでいた手に、弟の右手が重ねられていた。覆うように乗りだした上半身が、窓からの月光で私のうえに影を落とす。
「いつだったか姉さんは、だれも恨んでいない、って言ってたよね」
 夢を見ているような気がして、私は返事ができなかった。弟が就寝後の私に会いにくるのは初めてのことだったし、了承も得ずに部屋に入るのも逃げかえった最初のとき以来だった。
 正夢のようで身じろぎもできなかった。
「でも僕はそうじゃない。世界のほうが間違っているとしか思えない。……神も信じられない」
 喋るたびに、弟の頭が揺れていた。わずかに黄みがかっている月光が、弟の髪を昼間よりも濃い金色に見せていた。
「次に会うときまで、どうか元気でいて」
 無造作にはらわれた本が床に投げだされた。
 そうして私は、弟の重みでベッドが軋む音を聞いた。
 夢以外になんだと思えるだろうか。


 遠方の大学に行くはずだった弟は、そのままどこからも姿を消した。両親は手を尽くして捜しつづけたが、行方をつかむことはできなかった。
 両親の嘆きは、私の誕生以上のものだったろう。弟の失踪を、ふたりは彼自身の意志によるものとは一片も信じていなかった。過ぎた溺愛を疎ましく思っていたことを彼らは知らなかったので、しょうがないことかもしれない。
 私にも警察や探偵や両親から追求があった。本当に知らなかったので、正直にそう返答した。
 夢の話などしてもしょうがない。


 弟に会うまで私にあったのは退屈だったが、弟がいなくなってから私にわいたのは孤独だった。機械的に届けられる新聞や雑誌を眺めながら、私もまた弟の影を捜しもとめた。
 時が経つにつれ、両親は次第に諦めを強くしていたが、私はむしろ確信を深めていった。
 次に会うときまで……、そう告げた声が私の支えだった。
 そうしてやってきたそのときのことも、私ははっきりと覚えている。
 あれは大熱波がおこる前の日だった。


 白い足首まである上衣に、同じく白い大きな翼が生えていた。一目見てわかる造り物の翼に、私は弟がどこにいたかを察した。猟奇犯罪の増加と関連付けて語られた、ある新興宗教の象徴だ。
 別れを告げにきたときに残っていた少年の面影はもう見いだせなかった。
「ずっと待たせてしまった。でもそれももう、あと少しのことだ」
 枕を背もたれに身体を起こした私を見下ろして、弟は薄く微笑んでいた。
「もうすぐ新たな神が生まれる。この狂った世界も終わる。正常な世界で、姉さんはもう不自由な身体のことで苦しむことはなくなる」
 私は弟の威厳に満ちた相貌から、くすんだ紅の覆いから出た指先へと視線を移した。
「こんどはもう長く待たせはしない。私が来ることはできないかもしれないが、そのときは使いをやらせる。待っていて。どうか姉さん、それを待っていてほしい……」
 狂おしいほどの情熱が弟の声に滲んでいた。昔よりもそれは強かった。でも私にはそれが私のためかどうかわからなかった。私はそんなことを望んではいなかったので。
 それよりもどうして触れてくれないのだろうと、思ってばかりいた。
 出ていこうとした弟はそう告げられて驚いたように私を見つめた。昔の自分を忘れていたのかもしれない。指がわずかに動いたけれども、そばに戻ってくることはなかった。弟はもういちど、待っていて、とだけつぶやいた。


 大熱波の原因を取り沙汰すのは、生き残った人々の最初の気晴らしだった。堅牢をうたった高層建築群がなすすべもなく崩れてしまったため、どこにいても神経塔と呼ばれる奇怪な塔が目に入った。かつてとは違う重苦しく紅い色の空の下で、見るたびに細部が変容していくさまは畏怖のみをもって語られていた。
 私も離れのなかだけで生きていくわけにはいかなくなった。屋敷の影になったために無事だった離れで、両親とともに暮らしている。文字どおりひとつになったふたりは、いまはもう私が外に出るのを止めようとはしない。
 大熱波の原因を神経塔に求める人は多かった。私もそれに異論はない。
 でも、と私は思う。
 あれは弟が起こしたものではないかと考えるときがある。符丁が一致するためだけではない。
 歪んでしまったといわれる世界では、以前からと変わらぬ姿の私も、ありふれた存在として生きてゆける。
 弟が迎えにくる日を、私はいまも待っている。