恋愛
マルクト教団では誰しも、入団したときにそれまでの名前に代わり新たな名を貰う。古い名前は幼名として封印され、新たに生まれ変わったとされる。捨てられたはずの名前が、支配の源だった。
   「呼ばれたら返事をしろ。早く慣れろ。それとも昔の名で呼ばなくては駄目か?」

彼女が教団に身を寄せたのは、宗教的な心からではなかった。存在を疑わなかった居場所がことごとく失われ、逃げ場を求めて流れついたのだった。
   「私は望まれたことを、していただけなのに……」

そのころ教団では三つの企みが進行していた。ひとつは数年前に発見された神を留めおき独占する場所の建設、もうひとつは上級天使という地位の簒奪だった。前者は上級天使が、後者は若い切れ者の天使が密かに計画していた。
   「神を独占しようなど、愚かな考えだ。そういうものではないだろう、あれは」

彼女は建築方面には関与すべき才はなかったが、神の医学的な解明への寄与は大いに期待されたので、当初から優遇された。
   「どこにいても、私のできることは限られてる」

外の社会からの追っ手は届かなかったが、結局そこで彼女は網に捕らわれた。関わる研究を統括する天使は、己の企みのために彼女を手元に引きよせた。
   「きれいな名前だと思うが。……うん、いい名だ。代わりにもならぬだろうが、私の名も教えよう──」

最後の企みは、上級天使の交代から緩やかに開始される。
   「もちろん、私にも協力させてください。上級天使」

彼女の、天導天使という名と片翼の鳥二匹をあしらった偽翼は、新しい上級天使から与えられた。教団で唯一の階級名と偽翼に、彼女は誇らしく彼の脇に立った。
   「似合っているな。当たり前か、その偽翼は専用なのだからな。天導天使」

だれも口にすることのない名前は、彼が偽翼を外したときにだけ彼女に許された。
   「──」


 それほど遠くない昔、あるところに愛しあう夫婦がいた。彼らは生まれた子供に新婚旅行で訪れた街の名をつけた。妻がその街で見たものは、ホテルの天井だった。夫はシーツと枕だった。その十ヶ月後に生まれた娘だったので、躊躇なくそう決めた。
 子供が五歳になるまで、街は美しい思い出だった。六歳になるころにはただの過去になり、七歳になる前に憎しみの色を宿すようになった。
 母親とだけ暮らすようになった子供は、呼ばれる名前に潜む嫌悪を自分に対するものだと思った。家からは罵声や怒号は消えたが、それがなおいっそう、名への嫌悪を際だたせた。
 失敗をしないこと、した失敗は隠すこと、学校の勉強を頑張ること、他人からの評価を高めること、娘はそういったさまざまな努力を子供なりにこなし、母親の顔色を窺う生活を始めることになった。母親にとって実際消えてしまったのは夫への愛情だったのだが、身辺の整頓や生活水準の維持に追われるために子供への愛情表現を疎かにしてしまった。
 不幸は往々にしてそのように始まる。
 母親の事情を理解する前に、娘は愛の脆さへの不信感で世界に立つようになった。


 知らず感嘆の声を洩らした彼女に、彼は薄く笑った。
「あれが、神だ」
 示した指の先には、ひとに似ていながら明らかにひとではない物体がいる。
「息づいているようだが、実際には呼吸などしていない。なにを吸いなにを吐いているのかわかるか?」
「……いいえ」
「世界そのものだ。あらゆるものの本質を維持するために、常にああして取りこみ吐きだしている」
「神を保護し世界の安定を導き守るのが教団の使命だと、ここに来たとき学びました」
 触れるほど近くに唇を寄せ、彼は彼女の耳元でささやくように続けた。
「この世界が保護されるほどのよきものか? ならばなぜお前はここに来た。同じ問いは私にもある。飢えと貧困はいつまで続く。正しき行いが正しき結果に結びつかないのはどうしてだ。力のないことがそれを招くというなら、なぜ覆されぬほどの力のあるなしが存在する」
 来てまもないとはいえ、不穏な匂いを纏う発言であること彼女にもわかったようだった。身を翻すように向きなおった肩に、彼はゆっくりと手を伸ばした。
「神の保護によって世界が安定するものか。上級天使のやろうとしていることは単なる見栄と独占にすぎない。私はそれを正したい」
「どうして、私なんかにそのようなことを……?」
 それには答えず、彼は彼女の肩に置いた手を背中へと滑らせていった。


 愛を手にするためにはその同等以上の愛を保持表明しなければならない。娘はその法則を学ぶことなく成長していった。また仮に学んでいたとしても、そのことに気を払うほどの価値を見いだすこともできなかった。
 幸い学業においては努力と結果が好ましく合致していたので、そこに集中することで娘は他人からの評価を高めていけた。
 医学を志したのは、感謝のことばを求めてのことだった。だが、医療の現場に出てはじめて、完治する患者よりも死に向かう患者が多いことに気づき、研究の道に戻った。
 死の嘆きと怨嗟の呻きに立ちむかえるほど、娘は幸福ではなかった。


 彼の企みは成功した。白く長い上衣とその大きさゆえ存在を誇示する偽翼を身に纏い、彼は上級天使を名乗るようになった。その彼によって、彼女は創造維持神のプロジェクトを統括する立場に据えられた。建設は続けられていたが、そこはもう神殿ではなく幽閉塔に目的を変えられていた。
 そしていずれそれは墓標と記念碑になる予定だった。
 古き神の墓標、新たな神の記念碑。すべては上級天使の胸の内での予定であった。


 かつてその女は、ある街で天井を眺めすごした。そして今は、その街の名を持つ娘を傍らに、消毒液の匂いが漂う部屋で白濁した瞳で天井を見つめている。
 疼痛は定期的に、苦しみは絶えることなく、腕に繋がれた管には削られていく命を数えるように点滴が落ちている。
 いまはもう、楽になりたいと言うこともなかった。女はすでに意味のあることを口にすることもできなかったのだ。上着のポケットには、アンプルと注射器がある。娘はそれを四日間入れたままにしていたが、五日目に持ちこすことはできそうになかった。
 予感はなかった。例えば、請われるままに知人に融通していた抗精神薬や睡眠誘導剤のように、問題になることはないと思った。額に当てていた娘の手が、髪をなでるようにして降ろされた。
 死を免れぬことは誰しも同じであり、それをより楽な形でと願うこともありふれたことだった。娘はアンプルを取りだした。そこに詰まった液体は、確実に母親の痛みを取りのぞくものだった。そしてまたそれより少し低い確率で、心臓を止めるはずだった。
 その可能性にためらいはなかった。四日間入れたままだったのは、機会に恵まれなかったからだ。
 針先を封じたシールを、娘はねじり切った。小さく吐いた息に含まれるのは、別離のことばだった。


 彼女にとってそれは、ひどく愉快な光景だった。
「なにを笑っている?」
「不思議な気が……。この世に生まれたときから、あなたの背にはその羽があったように思えまして」
 上衣を身につけながら、彼は小さく頭を揺らした。彼女の位置からは、それは笑っている仕草のように見えた。輝くような金の髪がサイドスタンドからの光を反射する。
 偽翼を固定する金属音が四回鳴らされた。首だけ振りむき、まだ下着もつけぬままの彼女に向かって、肩越しに彼はたずねた。
「似合うか?」
「とても」
「私は急ぎの用があるが、天導天使はもう少し休んでいていい」
 偽翼も上衣もない上級天使を知っているのは、彼女だけだった。彼の私室に入り、偽翼を据えられた外套を脱ぎ、肌を合わせる。そして昔の名を口にする。すべては彼女だけに許された、誇らしく愉快な時間だった。
 閉じられる扉の音を聞きながら、全身に充足感が満ちるのを感じていた。
 それが愛であると、彼女は思っていなかった。事実それは愛ではなかった。


 娘が逃げたのは罪の意識からではなかった。非難と罵声を浴びる立場になったことに耐えられなかっただけだ。娘に同情すべきは、非難と罵声こそが幼いころの不幸の記憶と直結していたことだが、それは同時にその境遇に置いた母親への復讐と見なされる可能性も含んでいた。
 居場所を探しながらも、娘は無意識に己を必要としてくれるところを条件に加えていた。
 懺悔を必要としないところは二種類しかなかった。犯罪組織と新興宗教を並べて、彼女は迷わず後者を選んだ。
 教団は暖かく娘を迎えた。懺悔よりも知識と成果を求めてのことだった。


「痛みを抽出する? 麻痺ではなく抽出なのですか……」
 天導天使はそのまま黙り、額に手を当てた。考えこむときの彼女の癖だった。同じく呼ばれた研究天使は、上級天使直々に天導天使の補佐を務めるよう命じられ、緊張してうなずいた。
「抽出物は固体か液体に凝縮するように。それが可能になった時点で、別班を立ちあげ培養実験に入る。できるな?」
「やります。わかりました」
 できるという返事以外を認めない声音に、天導天使は期待を感じて微笑んだ。


 世界の再構築を彼女は七才になる前にその身で体験した。かすがいとして慈しまれ可愛がられた幼年時代は、もはや夢よりも遠い記憶だった。
 上級天使の明かす世界の改革に彼女は賛同していた。彼女自身はそう思っていなくとも、盲目的に意見に従い積極的に知恵と手を貸した。しかしほんのわずか、百分の一ほどの重さで不安にも思っていた。
 その不安の正体を探りあてる前に、ある日彼女の世界は変容した。驚愕や悲鳴よりも先に、似たなにかを知っているのにと、そればかりを考え困ったように笑った。
 床につくほど伸びた両腕は、骨と皮だけになり肘を曲げることさえいまは困難だった。
 足は伸びることはなかったが、形状については腕と同じようなものだった。だが歩くことも走ることもできるようだった。
 喉が苦しかった。気道の縮小にともない呼吸の量が減っているせいだった。
 研究の課程で神と世界にひずみが現れている報告を受けていたが、その具体例をその身をもって彼女は初めて知った。
 知らせを確認に来た上級天使は、怪訝そうに一瞬眉をひそめ、わずかに目をそらし息をついた。
「あれが先手を打ってきたというのか……。天導天使、しばらく業務は休んでいろ」
「待ッテクダサイ」
 小さくはあるが甲高い声で、彼女は上級天使を遮るように口を開いた。
「身体ハコノヨウニナリマシタガ、頭ノ中ハ変ワッテオリマセン。研究実務ハ無理デスガ、理論トデータノ検証ナラバデキマス」
 まだ慣れない口で、天導天使は上級天使の両眼に宿る曇りを取りのぞこうと言いつのった。無能な者を側に置かないことは、近くにいたためだれよりも強く知っていた。
 目覚めてからずっとあった疑問は、上級天使の溜息混じりの返答で解消した。そうして彼女は、また困ったように笑った。

 二日後に届けられた外套は身体全体を覆いかくすように長く、新たに仮面と帽子が加えられていた。


 怯えた研究天使が脱走し、捕らわれたときにはひたすら許しを嘆願した。
「俺は嫌だ。眠りも目覚めも怖くて耐えられない。いつあんなふうにされるかと思うと、あの研究を続けるのはもう、俺は御免だ」
 彼は望み通り地位を解かれた。雀の羽よりも小さな偽翼に降格され、ただ水を運ぶだけの作業に回された。


 分離された上澄みを天導天使はぼんやりと眺めた。物理的にも精神的にも、不幸の要因である『痛み』が彼女の目の前にあった。
「幸セナコトダ」
 変容した身体には常にどこかしら痣が生まれていた。ひどい痛みではなかった。だが、痣にまみれた身体を布越しにも上級天使は触れようとしなくなった。
「そうでしょうか……」
 最初から彼女についていた研究天使が、遠慮がちにつぶやいた。
「痛ミガナケレバ、モット楽ニ生キテユケル。アノトキニコノ技術ガアレバ……」
 断続的な苦しみからは解放されていたはずなのに、母親の死に顔は醜く歪んでいた。開きかけたくちびるはなにを訴えようとしていたのかと、彼女はいまの身体になってときおり考えるようになった。
「神に幸せなど、あるのでしょうかね」


「利用されているだけなのですよ。あなたは愛されていると思っているのかもしれない。しかしそれはまやかしだ。上級天使にはそのようなものは一切ない」
 愛を信じていないのは彼女も同じだった。幾度となくささやきかけられた中傷のような真実を彼女は耳に貸さなかった。
「あなたの神は、あの男なのか?」
 神に幸せなどない。不幸な神はひとも幸せにはしない。


 痛みを培養し弾丸として創造維持神に撃ちこむ。そう聞いたとき、天導天使は耳を疑った。痛みのない状態が最上であるとは考えないが、培養した高濃度の『痛み』を与えればどんな状態になるかは容易に想像がついた。
「死にます。神が、……神でも、耐えられません」
「そうか。ならばこの長き研究は成功ということだ」
「殺すおつもりですか」
「生きているものの命を奪うことが殺すということなら、それには当たらない。あれはあるだけで、生きているわけではない」
 いまもなお向きあうことのできない死の嘆きと怨嗟の呻きが、天導天使の耳の奥で低くよみがえる。
「たずねるが、私に逆らうのか?」
 激しくはない。凍てつくような静けさに、彼女はことばを失った。そんなことはできるはずがなかった。たとえ触れられずとも、ねぎらうことばを向けられなくとも、上級天使の傍らにいたいと思った。仮面の下で、顔が泣きだしそうに歪んだ。
 永遠も愛も、彼女はいまなお信じていない。だがそれは他者からの愛についてであり、己のそれからは逃げていた。


 かつて安寧のために母親に注入した液と神に終焉を与えるこれとに、違いはあるのだろうか。
 自問しながらも天導天使は、答えなどとうに手にしていたことに気がついた。


 最下層への移動手段が封鎖されているという報告の意味を、真っ先に理解したのは上級天使だった。反乱を企む一派があることは把握していた。決起近しとの情報もすでに得ていた。だが上級天使の承認なしに最下層の扉を開ける者は限られている。
 そのひとりがいない。
「──天導天使 」
 昨日まで、呼べばすぐに天導天使は現れた。姿が変わる前も、変えられたあとも、彼女は彼に愚かなまでに忠実だった。
「天導天使!」
 先ほどよりも強い調子で上級天使は呼んだ。返事はなく、近寄る音もなかった。
「天導天使! 来い!」
 続けて彼は、かつていちども口にしたことない名前を叫んだ。きれいな名だと世辞を告げたことはあった。どうでもよい昔の名を呼ばせたこともあった。重ねた肌にくちづけを降らせたこともあった。だが、天導天使の本来の名前を発したことはなかった。
 それはどこかの街と同じ名前だという。そんな街を彼は知らなかった。
 覚えていたことさえ、いまのいままで忘れていた。
 普段は冷静な上級天使の怒号に、警備天使は呆気にとられ立ちすくんだ。向きなおった上級天使は、すぐさまふたつの指示を与えた。
 ひとつは反乱分子が施した最下層への封鎖を解除し、そこで行われていることを完全阻止しろとの命だった。そしてもうひとつは、天導天使の身柄の捜索と拘束だった
「反逆者どもの形状、生死は問わん。引きずってでも連れてこい」


 ドウシテ逃ゲナイ?
 右の鳥がささやいた。
 逃ゲヨウト行クトコナドナイ。
 左の鳥が揶揄した。
 背後には白く発光する感覚球が鎮座している。感覚球の向こうからは、上級天使の気配がときおり洩れてくる。
「アノヒトガイル……」
 生の感覚がない肉体に意識だけがはっきりととどまっていた。なにもかもが遠く、耳元にくちばしを寄せる鳥たちさえもそこにいるとは思えなかった。
 そもそも鳥は、飾りものではなかっただろうか。
 最後に覚えているのは、網膜の焼ける色、骨の溶ける音、細胞の蒸発する匂い、父親の後ろ姿、母親の死に顔、上級天使の自分からそらした瞳の色、それらのすべてだった。
 死ぬことさえ許されないのだと、彼女は思った。ここは確かに神経塔だったが、以前のそれとはなにもかも違っていた。背後からは、ことばを交わすたびに脹らんでいった罪のやりとりが、幾度となく繰りかえされている。
 それでも彼女はそこにいた。
「……アノヒトガイル」
 愚カナコトダネ。
 声をあわせて、鳥たちが笑った。