春の訪れを、彼は毎年わずかな気鬱とともに感じる。身体の節々に生まれる痛みは、春一番やぬるんだ水よりも強く季節の変化を告げる。春物の衣服をしまった場所を思いだしながら、彼は滞る仕事や沸いてくる雑事に頭を悩ます。
「今年はいつごろ?」
 隣人の質問に、彼は曖昧に笑ってごまかす。毎年の彼の美しさに隣人は、春だけは心奪われ期待に口元を緩ませる。
「まだ、わかりませんよ。夜はまだ寒いし」
 答えながら彼は、右肘のうずきを悟られないようにそっと手で覆う。しかし十日も過ぎれば、ふたつしかない手では隠しきれないほどの春を身にまとうことになるのを彼は知っている。
 有給休暇を申しでた彼に、上司は「もうそんな時期か」と承認印を押す。上司もそれが恒例のことと知ってはいるが、一言嫌味をつけくわえるのも忘れない。年度末で忙しいことは彼もよく知っているので、恐縮し頭を垂れるしかない。皮膚を突きやぶろうと盛りあがるつぼみが、シャツの手首から見えかくれする。まだ固い萼に包まれながら、その中身はすでに薄紅に色づいている。
 家に閉じこもることもできるのだが、彼は結局外出する。毎年行き先は違うが、今年は隣の県との境にある古い寺へと足を運ぶ。着いたときにはすでに先客が数人いる。顔見知りの者もそうでない者も、気疲れとあきらめの混じった面持ちで、思い思いのところにいる。
 関節部分から桜は咲きはじめる。すきまの開いた春用の服は一般のものに比べて保温力が高い。それでも夜は肌寒く、篝火で暖をとりながら同じ身の上の仲間たちと酒をすする。
 初めて桜が咲いた十四年前から、彼の春はそのようにしてやってくる。

 この寺を選んだことを彼は三日と経たずに後悔する。山に囲まれたここでは、天気のよい日は上着の色が変わって見えるほど杉の花粉が飛んでいる。ティッシュペーパーの箱を脇に置いて、彼はぐるりと景色を見渡す。そして溜息をつく。
「杉の人も大変だ」
 二ヶ月近く欠勤することになるため、不況の昨今どこの会社も杉は取りたがらない。就職差別だとの声も絶えないが、どちらにも事情があるのはみなわかっている。
 ひとりごとのつもりだったが、花見の訪問者に聞こえたか小さく笑われる。
 鼻をかむたびに、桜の花びらが落ちる。杉花粉に鼻腔と咽を腫らしながら、桜花粉アレルギーじゃないことだけを、彼はだれにというわけでなく感謝する。