今年は寒暖の差が激しく、紅葉は例年よりもいっそう鮮やかだった。強い風もないために、いまにも散りそうな紅さを保ちながら枝に残っている。
 ミホの仕事はこの晩秋から初冬にかけての時期が最も忙しい。落ちる寸前の楓の葉に浮かんだ文字を裏に出てくる住所に郵送するのだ。毎年同じ人間に送るとも限らないので、手書きでの作業になる。最盛期には一日二千通を越えるため、肘から先が固く攣ってしまうこともしばしばだった。
 浮かぶ文字は大抵が一文字で、来年の運勢を示していると言われている。よい意味ととられればともかく不快感とともに送りかえされてくることもよくあり、その処理にもまた事務職に従事するミホたちは時間がとられていた。ただ、忙しいのはこの時期だけなので、趣味にまとまった時間を割きたいミホにはありがたい仕事でもあった。
 楓たちはミホの仕事ぶりを悪くは思っていないようだった。てきぱきと有能なわけではないが、黙々と達筆に宛名書きをこなすミホに良い文字の葉を与えたりした。ただ昨年もらった「結」の字は、とりたててミホに実感を与えることはなかった。それでもこの仕事に就いた四年前から、大病や面倒ごとに関わることはない。ありがたくもあるが、申し訳なくもある。そう遠慮するミホを、役得のようなものだから気にするな、と先任の同僚たちは笑った。
 

 季節は初冬に移ろうとしている。壁にある暦も最後の一枚が残されるだけだ。楓の枝に紅葉も残り少ない。見覚えのある住所にミホの腕が止まった。子供のころに住んでいた山陰の小都市の郊外を示す住所がそこにはあった。名前についても頭を巡らせるが、ミホはどうしても思いだせない。そっとその宛名の手紙を脇にどけて、ミホは次の住所に取りかかった。
 夕方五時に郵便局の集配車がやってくる。準備の整った封筒は机の下のコンテナに積まれていく。同僚の誘いを断り作業机で昼食を取ったミホは、ティッシュペーパーで弁当箱の汚れを拭いながら、宛名が途中で止まったままの封筒を見つめた。その町には二年もおらず、引っ越した当初ならまだしも二十年近く経ってはたずねてみる知人の当てもなかった。
 ミホはその土地のことを思いだそうとしたが、とりたてて目新しいものは出てこなかった。冬には毎日のように雪が降り、すべり止め効果を謳った長靴を履いても上手く歩けずによく転んだものだった。灰色に暮れた空の下で真上から雪を踏みしめる音は、いまでもミホの中にこだましている。その音はいつも、自分が立てる両足からだけのものだった。
 不意にミホは気が抜けたように息をもらした。それはいまも変わらないと、自分だけが残る職場を見渡し思う。もちろん昼休みが終われば、この部屋にも職場の人間は戻ってくる。しかし終わって家に向かう道では、低いヒールが鳴らす自分の足音だけが響くのだ。


 窓の外でミニバンのエンジン音がいつもと同じ場所で止まる。しかし今日に限って楓は多くの葉に字を浮かばせ、ミホたちはまだ宛名書きに追われていた。週末から冷え込むという天気予報を、楓も聞いていたのかもしれない。
 五十前の主任が申し訳なさそうに頭を下げ集配局員に椅子を進める。午後すぐからサーバーにあった香りの飛んだコーヒーを出して、主任もまた仕事に戻った。
 筆先が封筒をこする音だけが室内にはあった。少しずつ確実に新品の封筒は減っていき、窓の外は暗さを増していく。最後の楓を封筒に入れ口を閉じると、ミホは足下のかごではなく待ちわびる郵便局員の横に置かれた袋に直接放りこんだ。
 終業時間は十四分過ぎていた。終わり支度を始める同僚たちと同じように、ミホもまた筆記用具をしまいインクで汚れた指先を洗う。またひとりの足音を奏でるために帰ろうとしたミホは初めて、消そうと手を伸ばしたライトスタンド下に、途中のままの封筒が残っていたのに気がついた。
 先を書きすすめ、郵便集配局へ急げばまだ間にあうことは知っていた。だがこっそりと封筒を手提げの紙袋に滑りこませ、緊張を隠してミホは職場をあとにする。
 この時期だけの隔週土曜出勤を、ミホは先週こなしていた。遠い地ではあるが、最終の特急電車はまだあるだろう。たとえそれがもう終わっていても、丸二日あれば行って帰ってこれる。
 どうしてそんなことをしようと思ったのかは、ミホ自身もわからない。
 かつて過ごした町への往復の旅費と滞在費を簡単に計算しながら、ミホは銀行へと足を向ける。奏でる音は変わらずひとつだ。だがミホの胸には、小学生の自分が転ばないように気を張り踏んでいた雪のきしむ音と重なり鳴っていた。