猫町
 大学に近くて家賃が安いところを探せば、必然的にぼくは猫町に住むことになった。駅からは遠く、バス停も近くにない。大型のショッピングセンターはないしコンビニエンスストアもない。町工場から洩れる染色液の匂いが夕方に漂う。それが猫町。
 もっと早くに学生課に斡旋を頼めば別のところもあったろうけど、地方からそうなんども足を運べるわけがない。大学が始まる一週間前に日帰りで来て決めたのは、六畳と三畳のキッチンとトイレで風呂のない猫町一丁目アパート、通称ネコイチの階段を上がって二番目の部屋だった。
 大家さんは隣の家に住む。家賃は銀行振込かとたずねれば、目を丸くしてそれから「銀行まで行くより、家に持ってくるほうが早いやろ」と笑った。夜も電気がついていればいつでも持っていっていいそうだ。
 引っ越しは入学式の前日になった。どうせ実家から持っていく荷物は両手に下げた袋と、りんごの段ボール箱に三箱だ。布団だけは向こうで買うことになる。猫町に布団屋はあっただろうか。
 大家さんと同じアパートのひとに渡す手みやげは買った。辞書と太宰治と金子光晴の文庫は、段ボール箱の衣類の隙間につめた。鍋をふたつとフライパンに菜箸、茶碗と湯飲みと急須と大皿小皿に小鉢に丼碗をそれぞれ親父の会社名入りのタオルでくるんで、これもまた段ボールにつめた。コンロは備えつけである。連絡はしておいたので、ガスは明日きているはずだ。引っ越したその夜からお湯なら沸かせられる。お湯さえ沸けば、食べられるものはいくつもある。
 それはまるで、入ってしまいさえすれば大学なんてどうにでもなると思って問題集に首っ引きだった一ヶ月前と変わらない。

 早朝の駅で両親と別れる。この辺りのこの時間はまだ息が白い。次に帰るときは、きっと朝から日暮れまで蝉が鳴いているのだろう。
 ぼくが乗りこむのを車掌が確認して汽車のドアが閉まる。母はまだ手を振っている。徐々に速度を上げる汽車の窓際に座り、ずっと住んでいた町が後ろに流れていくのを見ていた。
 田圃のあぜを黒斑の猫が歩いている。
 そういえば猫町なのに猫を見かけなかったなと、ぼくはふと考えた。猫町の猫が新入りのぼくを歓迎してくれたらいいと、あぜ道の猫が見えなくなったころに思った。