庭は私に残された最後の領域だ。
 広さだけが取り柄で、手入れもされていない荒れ放題の草むらを縦横無尽に歩きまわるのが、夕暮れの私の日課だった。
 今日もそうしていた。塀の向こうに陽が隠れようとしている。そのとき、背後からなにかを空に向けて打ちあげる音がして振りかえれば、虹が立っていた。
 間近で正式な虹を見るのは初めてだ。小学校の理科の授業で作られたのを遠巻きに眺めて以来のことかもしれない。しかしあれは簡易版で太さも長さも、これよりもずっと小ぶりだった。
 横に回り鼻が触れるほど間近にのぞきこむと、色と色の境目はきっぱりと分かれているわけではなく、淡い水彩画のように滲んでぼけていた。私の庭にあるのだからこれは私の虹だと思い、端の紫色した部分に指先を当ててみた。
 虹なんて珍しくはない。でも私の虹は初めてだ。
 しわの寄った紫色の帯が跳ねかえそうと押してきた。案外バネがきつい。
 私の身体よりも少し広い虹を、しぼるように両手でつかんだ。ぎゅっと絞ると片手でもつかんでいられた。指の隙間から空にのぼる虹は、七色が混じりあって妙な色になっている。
 腕をゆらしてみれば、虹もまたゆらぐ。新体操のリボンを思いだし、手を八の字に回す。動きにあわせて、空には色の軌跡がわずかに残り消えていく。
 縄跳びのように腕を大きく回す。ひぃぃゆんっ、と風を切る音が空から降りてくる。ドップラー効果だろうか、音は小さく始まり大きくすり抜けまた小さくなりながら四分の一ずつ下がっていく。
 腕を回す大きさで音も変わる。ついつい私はなんども繰りかえした。色は七つだけだが、音はもっとたくさんあった。
 小一時間ばかりそうしていただろうか。やがて虹は弾力を失い、徐々に細くなりかすかな音を残して切れた。手を開くと、虹の屑が風にこぼれ散っていく。陽は落ち、空にはもう星が瞬きはじめていた。
 指と手のひらに、七つの色が移っている。虹が次に立つのはいつだろう。散歩しているときにまた出ればいいのにと、手を擦りながら思う。耳に寄せてみても、もうなんの音もしなかった。