冷蔵庫
 もうすっかり夜になっていた。壊れた冷蔵庫を修理しようとねじを回してみたものの、彼には配線も基盤もなにもわからない。ずっと冷蔵庫が好きでずっと冷蔵庫と暮らしていたのでわかった気になっていたが、それは間違いだったのだ。
 低い唸りを上げる残り九台の冷蔵庫たちは、ねじを開けられまいと平静を装い稼働している。
 製造メーカーの修理人を呼ぶしか手段はないのかもしれないが、以前にいちど来た修理人が部屋に入るなりぐるりと見渡し「あの、それで、どれですか?」とたずねられ、それに彼は侮蔑と困惑を感じてもうだれもこの部屋に呼ぶまいと誓ったのだった。それにそもそもこの冷蔵庫は、彼の母親が結婚したときに持ってきたもので、部品などメーカにも残っていないだろうことも明白だった。
 万が一の望みをかけて、彼は元通りにねじを閉めた。しかし、冷蔵庫はなにも言わない。指でボディをなぞりながら、彼は冷蔵庫の思い出をたどった。別れるときの、それは儀式のようなものだった。


 冷蔵庫は白に限ると彼は信じていた。色つきは一台くらいならアクセントにもなるが、結局は統一感を失わせる。昔この部屋にいたしおれたネギのような緑色した冷蔵庫は、中に入れていた古い衣類ごと捨ててしまった。そのとき彼は、さよならを言う気もおきなかった。冷蔵庫は白に限る。
 そして冷蔵庫なのだから冷たくしなければ意味はない。壊れた冷蔵庫を戸棚として使うことなど彼にとっては冒涜に近い。中はきんと冷たく、外は持てあました熱を洩らすように暖かい、そうでなければ冷蔵庫ではない。
 ドアはいくつあってもよかった。しかし冷凍庫は冷蔵庫ではないので、彼にとってはどうでもいい存在だった。昔、彼がこのことをわかってもらおうと説明した知人には怪訝な顔をされた。しかし車とバイクは移動手段として同じものかと問えば、バイク好きだった知人は、即座に否定した。そして納得の笑みを返した。冷蔵庫が冷凍室を持つのはかまわない。しかし冷凍室だけになってしまえばそれは冷蔵庫ではないのだ。
 冷蔵倉庫に住んだらどうだと、からかわれたこともあった。彼もいちどはそれを考えたこともあった。だが入れてもらったときに彼がわかったのは、白く輝くボディがなければ冷蔵庫ではないということだった。ただ自分が小さく縮み冷蔵庫に入ったような気持ちにはなれた。もし巨人の国があれば、そこの冷蔵庫に部屋を持つのが理想的かもしれないと思っている。


 朝になり彼は決心を固めた。レンタカーの荷台に載せた冷蔵庫ががたがたとふるえている。いままでありがとうさようなら、と彼は胸に感謝を抱く。処分場で手数料を払い、所員によって引きとられていくのを姿が消えるまで見送った。さようならと、なんどもつぶやいた。
 処理場をあとにした彼は電気店に向かう。できれば大型の、すぐに持って帰れるように倉庫が隣接し在庫があるところへと、車を急がせる。何十年もまた共に暮らせる冷蔵庫を、新しい伴侶を求めに彼は道を進む。