理由が死んだのは、四月頭の雪の日だった。ちらちらとこぼれるような雪片が、三部咲きの桜を隠すように積もった。理由の死は自殺だった。遺書はない。死んだ瞬間に理由は存在しなくなったのだから、当然のことだろう。この近年ない大ニュースは瞬く間に世界中に広がり、理由がもうどこにもいないことは万人が知ることとなった。
理由が死んでいちばん困っているのは、言い訳だった。言い訳は理由のふりをしていままで調子よく生きていた報いを受けている。よるべきものがなくなり、ある言い訳は開き直り、またある言い訳は別の言い訳と統合を繰りかえし無駄に大きくなった。バルト海の半分を沈めた言い訳は、その最たるものだ。
原因は理由の死によって存在価値を薄くしたが、言い訳と違い事象を伴うことが多いので立場を悪くすることはなかった。ただ、語られる原因は言い訳ととられることが多くなった。それを不快に思う原因もいたが、明確な論理によって積みかさなった原因も案外ないので受けいれるしかなかった。
動機は理由がない世界でも理由がいたころと変わらずに過ごそうとした。孤独になったが、そんなことはおくびにも出さずに冷静さを貫きとおした。
理由のない世界は無駄のない世界だった。法律や倫理に悖れば罪を負う。それだけのことだ。最初こそ戸惑うひとも多かったが、そういうものだと納得すれば生きにくい世界ではなかった。それに世の中にはそうそう、理由なしでは成立しないことなどなかったのだ。
ヒロシはその平凡な名前のように、よくある理由のひとつだった。少なくとも本人や周りの人間は、その日までそうだと思っていた。時々呼ばれては、愛が壊れた理由として別れの現場に立ちあった。当事者たちが泣くのも怒るのも呆れるのもほくそ笑むのも見てきた。
理由が死んだ日にもヒロシは元気で、その後も異常なくぴんぴんとしていた。それで皆は、ヒロシが理由でないことを知った。「ほかに好きなひとができた」なんて理由にもなれないおためごかしのようなものだと知ってしまった。
「そんな言い訳は聞きたくもない」
あるときに出向いた愁嘆場で、ヒロシを見るなり男が怒鳴った。男が去ったあとで泣きくずれる女に、「どうしてあんたが来たのよ!」とも逆上され頬を張られた。
帰り道、まだ痛みがわずかな熱になって残る頬をなでながら、言い訳なのだろうかと、ヒロシは自問した。しかし、その三日前に出向いた先では「僕がユカリを好きになったことが原因だ」と原因扱いされた。都合よく使われることは前々からのことなので慣れているが、悪役にされるのはたまったものではなかった。
理由の死が取りざたされることがなくなったころだった。ヒロシが出向いた公園で灰色のコンクリートのベンチに腰かけて女が泣いていた。もう五十に届こうかという中年の女だ。周囲を見渡してもほかにだれもいない。砂場やすべり台がなければ親子連れも寄る意味がないのだろう。
「あんた遅いよ。もうあのひとは、行っちゃったからね」
ヒロシの姿を見て女は言った。そしてまたしくしくと泣きだした。そんな必要も意味もないのだが、「間にあわなくてすみません」とヒロシは謝罪した。
「あんたが来なけりゃ、あのひとがあたしを騙すためについた嘘だと思っていられたのに」
はあ、とヒロシは曖昧に相槌を打った。ヒロシがいなければすぐにばれるような嘘を、どうして望むのだろう。
まだ泣きながら、女は「よいしょ」とベンチから腰を上げた。よろけながら出入り口を目指す女に、ヒロシは思わず「大丈夫ですか」と声をかける。
「大丈夫なわけないだろ。でもあんたに心配されてもしょうがないんだ。あんたはただ、ここで捨てられた女がいたことだけ知ってさっさと帰りゃいいんだ」
一喝されて、ヒロシは為すすべもなく立ちすくんだ。女の後ろ姿を見送って、そのまま彼女が座っていたベンチに腰を下ろした。
激しいブレーキ音となにかぶつかった鈍い音と若い女の悲鳴が続けざまに聞こえて、ヒロシは弾かれたように音のした場所へと走った。
さっきの女が血を流して横たわり、通行人らしい女がふるえながら携帯電話で救急車を呼び、慌てて車から降りてきた男がおろおろと女をのぞき込んでいた。
ヒロシは原因の一部として現場検証に駆けつけた警官に自分がいた理由を伝えた。警官はまったく表情を変えずにメモを取り、それが終わるとヒロシに「もう帰っていい」と告げた。女は一命を取りとめたそうで、ヒロシはする必要もないのに安心した。
帰り道、ヒロシは女が自殺かどうか考えた。しかしもう理由はない。車道に女が飛びだし、車がたまたま通りかかっただけのことなのだ。自分はその前に女といただけで、ぶつかるところは見ていない。女が言ったように、さっさと帰ればよかったのだ。そうすればただのありふれたこととして、知らずにいられたのだ。
頭のなにかわからない重さで左に傾いでいる。理由が死んだときも、いまの自分と同じ気持ちだったのかもしれないとヒロシは思った。
どこかでまただれかがだれかを好きになり、それによって好きの比重が下がるだれかが生まれる。だれかがありふれたことばを口にするとき、ヒロシはその場に行く。
ただあれから、呼ばれるたびにヒロシは死のうとした女が脳裏をかすめるようになった。理由ではなく、言い訳でも原因でも動機でもないなにかが残像のようにちらつくのだ。
ヒロシは己について考えるようになった。自分はほんの小さい個人的な歴史の一環で、ただそれを見届けるために今日も呼ばれて赴くのだと、ゆられるバスや地下鉄で息と気持ちを整える。
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