サイコロは色違いに十個ある。よくある六面体ではなく十面体で、零から九までの数字がそれぞれの面に刻まれている。赤は一桁目を、青は二桁目を、黄は三桁目を、緑、橙、紫、茶、青緑、黒、白と十桁までを意味し、一から九十九億九千九百九十九万九千九百九十九までを示すことができる。
このサイコロが作られたのはおよそ三年前になる。製作が決定するまでに費やされた時間はそれよりも長い。慎重を積みあげた議論は、すなわち臆病の深さでもある。しかしサイコロは作られた。その製作意図と課程は世界の隅々にまで届けられた。多くは映像や音声として電波にのり、電子情報として通信網に散らされ、印画紙に焼きつけられ、紙に印刷された。不正や陰謀から無縁であることを、強く知らしめる必要があったからだ。普段は厳重に封され仕舞われたサイコロは、やはりどこからも干渉を受けていないことを示すために、いくつかの国に開封の鍵を分けて置かれた。
市販のサイコロに比べればはるかに高価なものだったが、素材的に価値のあるものではない。蒐集家によっては価値を構築し表明し手に入れたがるだろうが、失われればまた同じ行程を経て再生産され、大切に補完される道具である。
選別のための道具である。
かつてそれは疑問ではなかった。
神が生まれた日とひとが生まれた日はどちらが古いのかという問いは、現在では同時と答えるのが正解とされている。
ひとも神も同じように、大きな世界の機構系統により分かたれた枠組みのなかで、生まれ死に生活する存在である。喩えとしてよく使われるのは、それぞれが巨大なアパートメントの一室の住人同士のようなもの、ということだ。神はただ隣の住人なのだ。違いは、ひとは神の部屋へ行けないが、神はひとの部屋へやってこられる。呼べば、とりあえず現れる。
八年前に偶然ひとと神は遭遇し、そのことが周知の事実となっても、ひとはまだ少し神を特別に思っている。
神はサイコロを振る。
ひとの英知や技術を結集させようと、乗り越えられない困難は存在する。多くは時間と知恵と根気が解決するが、それでは間に合わないことも往々にしてある。なにかを選抜する必要性を感じたときに、ひとは神を呼びだす。
善意からも悪意からも、思惑があってはいけない。陰謀があってはいけない。差別があってはいけない。偏見があってはいけない。
そのような誠実さを求められる局面において、美に寄らず醜に傾かず、賢は見せず愚も示さず、見上げる長身も見下ろす短躯もなく、神はあらゆる国のあらゆる民に、危険のない隣人であるかのような印象を与える外見で忽然と姿を現す。
第一声は常に「やあ」と発せられる。あらゆる言語で、そう聞こえる。
責任は神に、怨嗟は神に、悲嘆は神に、絶望は神に、感謝は神に、祈りは神に、一心に捧げられたとしても神は意に介さない。だからこそ呼ばれる。
神はサイコロを振らされる。
「間隔が短くなっている」
サイコロの記録者であるツトムは、独白のような神のことばを記録するべきかどうか短く逡巡した。だが結論が出ぬうちに次のことばがあり、元々の使命である数字の記録以外は無視することにした。
「それに数も増えている」
神の無造作に開かれた両手から、白いフェルト張りのテーブルにサイコロが五個ずつ転がる。転がりおちないようにテーブルは枠で囲まれている。麻雀卓を参考にして作製されたという噂はすでに伝説となっているが、実際はビリヤード台の大きさに近い。これもまたサイコロと同じく慎重に公平に作製されている。
ツトムが十個の数字を書きうつすのを待って神はまたサイコロを拾いあげる。これらもすべて映像として世界中に流されている。ツトムが行っている手動での記録は、最終確認のためよりも神の規則正しい行動のためのものだ。降った回数を覚えない神をひとりにすると、すぐに飽きて帰ってしまう。どこからか現れる神は、どこからでも戻っていく。
「重要な案件ではあるが、安易でもある」
サイコロがぶつかりあって小さな音を立てる。七になりかけていた黄色いサイコロが二へと変わる。外の音が室内に届くことはないが、ツトムは世界のありとあらゆるどこかで洩らされた、悲鳴や息を呑む気配を容易に感じた。記録者に選ばれたからといって、胸にある十桁の数字からツトムが逃れられたわけではない。昨日生まれたばかりの赤ん坊であろうと、いまにも死に瀕した病人であろうと、何十万人もが働く複合企業の代表であろうと、懲役五百年を超える犯罪者であろうと、その数字と神のもたらす数字の一致からは逃れられない。
神に選ばれた者が行くところまではまだわかっていない。
神の国は、ただ神が食べて寝て起きて生活している世界にすぎない。人間の世界から移住できるわけではない。神の世界では神はありふれた存在でただのひとなのかもしれなかったが、人間たちで溢れるこの世界においては、畏敬の対象であり超越の象徴だ。
本来ならば神という概念は、より広い世界機構にこそ向けられるものであるはずだ。しかしそのようなものは、偶像化できない。信仰もできない。だから必要とされる。
長い時間をかけて、すべての欄が神の振った数字で埋まった。五十万の数字を記し疲れきったツトムは、自分の見知った人間がこのなかにいなければいいが、とようやく思った。
気がつくと神はツトムの目の前に椅子を寄せ、顔を覗きこんでいた。
「たった五十万人でなにが変わるのかな。対象を新生児に限定すれば同じだけの効果をもたらす数はもっと少なくてすむし、老人や重病人に限定すれば嘆きをあきらめに塗りかえる作業もいくらかマシだ。社会に対しての働きが乏しい者でもいいだろう。いっそ犯罪者に限定すれば抑止効果も期待される」
揶揄のようにツトムの耳には届いたが、神は嘲笑も軽蔑もその特徴のない顔に宿すことはなかった。疑問すら感じさせない。独り言なのだ。
「公平を期すためと言われてもその公平をどうやって証明するんだろう。そもそも私が公平だとどうして思うのか」
多くの国家主席が懇々としたはずの説明をツトムもまた口にする前に、神は疑問に似た独白を重ねる。
「でも本当は、公平じゃなくてもいいんだろう。違うものが必要なだけで」
ツトムは息を呑み、次の呼吸ができるまで心臓すら止まった。神が振るサイコロについて疑問や反対を表明する者は少なくない。不明瞭で理不尽な人減らしは、人道的な観点から糾弾される。それで奪われ破壊されたサイコロもあった。けれどもふたたび同じものが作られた。国家指導者たちの意志なのか、彼らを選んだ民衆の意志なのか、反対者たちは口角泡を飛ばし議論する。扇動する。行動もする。か弱く、乱暴で、欺瞞にまみれて、この世界の文明の深度を示す。
だが、今日五十万の数字が選ばれた。
なにも言えずにうつむいたツトムを、神はしばらくのあいだ無言で見下ろした。用が終わればすぐに帰るはずの神は、不意にサイコロを手に取りテーブルの上に転がす。
「ではさようなら。それか、また」
ツトムが顔を上げる間もなく気配が消え、神は自分の世界に戻った。神の自己申告と人間の推測なので、本当にただの隣の住人であるのかどうかはわからない。この世界の人間が、理解できない彼を神と呼んでいるだけに過ぎないという可能性もある。大いに、わずかに、半々に、つまりわからない。
五十万と一番目の数字はどこにも記録されない。映像の配信は終わっている。ツトムの目に触れるだけだ。
十個のサイコロにを桁順に並べれば、ツトムの胸につけられたものと同じ数字となる。それに気づいたツトムの心中に神は関与しない。頓着しない。笑わない。哀れまない。
生存の許可か自主的な死の宣告かは、ツトム自身に委ねられる。
神はただサイコロを振る。それだけだ。
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