天井
 天井からは声が降る。
 泣くな、泣くな、泣くな、泣くな。
 公春は両手で口元を覆い、目をつむった。励ます声は父親のものだ。とうに亡くなった父親は、生きている内は頭をなでることさえしなかったくせに、いまはそうやって公春にかまう。
 平静な呼吸を続け、公春は声が去るのを待った。動揺を悟られれば、声はいつまでも止まなくなる。助けて、と泣くまで止まらなくなる。
 死んでまでなお、自分に泣き言を許さない父親を公春は憎みたかった。
 だが声は、泣きたいほどに優しかった。


 とりかえしのつかない失態はないと、公春は信じていた。だが、とりかえすためにする種々の段取りや行動は、する気力があってこそだと公春は知った。背広を脱ぐ余裕もなく、公春は食卓の椅子に座りこむ。彼の妻はすでに寝室で休んでいる。子供は、昨春家を出た。まだ二年半は学生を続けなければならない。犬はこの冬に死んだ。天井にはいない。
 食卓の上には『お風呂に入ったなら、寝る前に給湯器のスイッチを切っておいてください』と走り書きされた細い字があるだけだ。食事は済ませているのでそれだけでもかまわないが、失望のような空虚な気持ちが胸にわくのは止められない。まだ失望する余裕があることに気づいて、公春は自嘲するように笑った。
 ためらう気持ちはどこからわくのだろうか。胸ではない。脳でもない。心はいまだ発見されない臓器だ。医学者はいまもそれを探して研究を続けている。
 死ねば身体は朽ち、魂は天国に向かい、心は天井に溜まる。魂は天国で浄化再生され、心は天井を張りかえれば居場所を失う。
 泣くな。
 また始まった声に、公春は耳を塞いだ。今日は、一分と耐えられないことは彼にもわかっていた。声など降らずとも泣きたいのだ。泣いたとてなにも好転はしない。だが無駄と知ってなお、公春はそれをしたかった。
 泣くな、泣くな。
 見上げれば、天井には父親の涙が年輪を刻むようににじんでいる。乾いている過去のものも、いまできた真新しいものも、二週間前の半乾きのものも、抽象絵画のように幾重にも円を描いている。
「疲れたんだ、もう泣かせてくれ」
 泣くな。泣くな。泣くな。泣くな。
 公春の呻きを否定するように、天井からはそれしか降ってこない。椅子からも転げおちて、公春は床につっぶした。
 死ねば泣ける。泣けば死ねる。失態からも逃れられる。収拾も他人に任せられる。
 天井からはまだ、同じことばが繰りかえされる。
 公春はただ、おいおいと泣くまねだけをした。風呂が温まるまでそうして過ごした。