天使
 天使が眠らないことは、あまりよく知られてはいない。天使は使役と遂行のために生まれた霊的消費存在で、我々から見れば、彼らは(伝統的に天使は人間に対し性別を隠すので彼女らかもしれないが、便宜的にここでは彼らとする)常に行動をしている。緩やかにではあっても、立ち止まってはいても、瞳や指、羽根や光輪が使命を求め動いている。彼らはいじらしいほどの働き者だ。
 そしてよく働いた天使は小さい。消費存在であるために当然のことだが、全長が八センチメートル以下になれば五日ほどで天に返る。初仕事前の天使が二メートル近くあることを思えば、身を粉にして働くという比喩は彼らのために生みだされた表現なのかもしれない。

 スミスに声をかけた天使も小さかった。あとひとつかふたつほど仕事をすれば地上勤務は終わるのではないかと、声の主を捜しまわったあとにスミスは思った。
「スミスさんもうすぐ三年目ですね。よろしければ私がご同行いたしましょう」
 スミスが天使とことばを交わすのは初めてだった。天使の声は鈴の音と交わっているので、歌うように聞こえる。初対面とはいえ天使がスミスの名を知っていることは驚くに値しない。天使は公共機関の第二次公開情報枠まで常に接続可能なのだ。
「初めまして。お役目ご苦労さまです。なにが三年目なのですか?」
 幼少のころの祖母の教えどおり、礼儀正しくスミスは挨拶した。だが天使は微笑むだけで「行きましょう」とスミスの質問には答えなかった。
「失礼ですが、私はどちらへ行くのでしょうか?」
 天使の小さな、スミスの小指の爪よりも小さな掌が、シャツの袖をつかんだ。しじら織のように細かなしわが寄る。「行きましょう。行きましょう」軽やかな声音で天使が笑う。思いのほか強い力にスミスの顔に狼狽が浮かぶ。気を抜けばそのまま横倒しにされてしまいそうだった。
 スミスは足を踏んばってみた。しかし朝磨いたばかりの革靴の磨りへる音が加わるだけで、天使の速度は変わらない。
「待ってください。少し待ってください」
 振りほどこうにも天使はあまりに小さく軽すぎて、ただひゅんひゅんと左右に揺れるだけだ。息を切らしたスミスが首を曲げ、苺よりも小さな天使の頭に顔を寄せたずねても、まるで眼中にないように進む方向から目をそらさない。
「なにが三年目なんだ。どこに行くというのだ」
 スミスに三年目の見当はつかない。結婚をしたのは五年前であり、転職をしたのは一年半前のことだ。子供はまだない。結婚以来同じ家に住んでいるし、趣味であるスキー歴は二十二年で、ジャズクラブ通いは九年である。スミスが知るかぎり三年目になるものはない。
「違う、私じゃない。違う違う違う」
 スミスは頭を振りながら金切り声で叫んだ。なにが違うのか、だれと違うのか、スミスはわからないままにそうわめいた。往来を行く人々が同情とも好奇ともつかない視線をわずかにスミスに送る。見えもせず聞こえもしないようにまるで関心を払わない者もいる。天使はそのあいだも「行きましょう、スミスさん。三年目です、スミスさん」と唱えつづけた。
 やがてスミスは許しを請いはじめた。十字路を三回曲がり、郊外のでこぼことした石畳も途切れるころだった。不安に心が押しつぶされそうなスミスが洩らすただひたすらの哀願は、楡の木立を縫って四方へと広がる。だが天に届くほどではない。天使はスミスとはまるで反対に疲れを微塵も見せず、目的の場所へと向かった。けして短くもない時間だが、休息を取ることはない。
 天使は本当に働き者なのだ。

 スミスを送りとどけた天使は、赤銅色の門が音もなく閉まるのを変わらぬ笑みで確認する。固く、隙間もないほどに閉じられた門からはもうスミスの声は聞こえない。気配も感じられない。天使の全身が二回リズムを取って縮んだが、天に還るにはまだ少し大きかった。
 残念とも思わずに、天使はまた手助けを必要とする者がいる場所へと向かった。だれに教えられずとも、そこがどこかを天使は知る。地にひとは溢れ、助けを必要とする者が尽きることはない。なによりそれこそが天使の使命で、それ以外天使にすべきことなどないのだ。