いまから嘘をつきます。
 そう前置きして、タカシはこの二ヶ月ずっと握ったままでいた左手をゆっくりと開げる。桜の匂いが放たれて、地面へとこぼれる。さぐるようにそろそろと、棲みつく樹を求めて匂いは広がっていく。
 安堵したように胸を上下させ、タカシは深く息を吐いた。
「これで桜が咲きます。いままで止めておいてすみませんでした。三月半ばの月が欠けはじめた日の深夜に、俺が眠っていたベッドに桜前線が忍びこんできたんです。爪先からまさぐるように昇ってきて、くすぐったくてたまらず俺はそれを掴みました。そのまま窓から捨てようとしたんですが、つい、本当についふっと『このまま逃がさなければどうなるだろう』と思っちゃったんです。桜が咲かなくなるだろうってのはわかっていました。でも桜前線だってひとつじゃあるまいし、全部が立ちきえてしまうとは思いもしなかったんです。もちろん事の重大さには俺もすぐ気がつきました。俺だってバスの運転手をしてるんです。桜寺への臨時バスの告知がなんどもやり直しになるのは困ったことでした。出勤表がメチャメチャになりましたから。でも桜前線だって、俺から逃げようとすればいつだって逃げられたはずなのに、そんなことしませんでした。いつまでも手の中でぐるぐると小さく渦巻いているだけだったんです。本当です。いや、嘘です。だってこれ嘘だったんでしたよね。そう嘘です。嘘なんです。でも桜前線は俺といっしょにいました。そりゃさっき手を開いたときは、ヤツも出ていきました。でも俺ひとりだったら行かなかったかもしれない。そういうヤツなんです。優しい……? のかもしれません。なんだか気味悪かったけど、いっしょにいてくれたのは本当だから。あ、また本当って言っちゃった。嘘です、嘘。ホント、嘘なんですよ」
 いいわけを口にしながら、タカシの目はずっと桜前線の行く末を追っていた。分裂を繰りかえしながら広がる桜前線は、タカシには未練の欠片も見せずに遠のいていく。泣きだしそうにゆがんだ顔を伏せて、タカシは小さく笑う。
「知ってます? 桜前線って、暖かいんすよ。これは本当。本当に本当」
 なんども手を開いては閉じながら、タカシはぶるりと肩をふるわせる。春が消え寒さが逆戻りした日のように、身を縮こまらせる。

 二ヶ月という無為の時間は、桜前線が国中を覆ったときに巻きもどされる。そして桜が散りきってしまうころには、タカシの嘘も消えてしまう。