この間の小倉競馬場での10レース「阿蘇ステークス」で和田竜二騎手が乗ったサンライズキングがマークした1分41秒8はダート1700mの日本レコード。
昭和44年3月1日、東京競馬場のダート1700mでタケシバオーが作ったレコードを0.1秒更新する事になりました。37年5か月ぶりに破られたタケシバオーの記録は
これまで最も古い日本レコードであり「不滅だろう」とさえ思われていたその記録が破られた、と言うのは凄い事ではあるのだが競馬ファン以外には
「何の事やら」と言う風に思われるのがオチなんだろうなぁと言う事を思ってみたり。だから日記には書いてこなかったんだがこれは書かないといけないわ。
と言う事で書いておく。阿蘇ステークスの発走時刻15時35分の1時間30分前頃にある14時付近から急激な大雨が小倉競馬場に降り注いだ。
1時間近くで馬場状態の発表が良馬場から一気に不良馬場になる程の大雨。芝コースは「馬場状態が悪くなる程時計が掛かる」のだがダートではその逆に
「馬場状態が悪くなる程時計が早くなる」と言う事でこの「お天気の助け」もあった。サンライズキングは逃げ馬。小倉競馬場は「小回り」の競馬場なので
前へ行く方が有利。後ろの馬は前の馬が後ろ脚でひっかけた泥が掛かる訳でその「掛かった泥」にも耐える必要がある訳でスタミナを酷使する。
不良馬場で雨が降り注いでいる小倉の小回りダートにおいては逃げる事が必須。時計も早くなり前が止まらない様になれば逃げ馬天国。
そう言った恩恵があった事も否定しない。ただどんなに恩恵があろうとも馬に実力が無ければレコード記録を更新する事なんて不可能。最終的には馬の力。
それが試される。と言う事で恩恵はあったがサンライズキングの強さや頑張りを否定する物ではないと言う事で。これは「いよいよ本格化か?」と思っていい。
そして「レコードを破られた」方の「タケシバオー」についても触れておくか。距離適性は1200mから3200mまでに勝ち鞍があると言う「超」オールラウンダー。
今や距離別によって明確な名馬の区分が常識となった日本近代競馬と比較した場合異端の存在。37年5か月ぶりに破られた、と言う事でおよそ40年近く前のお話。
1969年3月1日の土曜日。東京競馬場の5歳以上オープン、ダート1700メートル。馬場状態は重。そんな中で頭数6頭と言う少頭数。
1着となったタケシバオーの斤量は別定で60キロ。獲得賞金によって斤量が変わり「稼いでいる馬ほど重くなる」中での圧勝劇。2着には2.8秒差と言う大差。
2着となったスイートフラッグの斤量は54キロ。全く以て当時のタケシバオーの強さには驚かされる、と言うのが当時の短評。最近の文献には以下の様な物も。
アメリカがロケットのアポロ11号を打ち上げ、人類が月面に第一歩をしるしたのが昭和44(1969)年である。その年の年度代表馬が5歳(旧年齢表記)
タケシバオーだった。前年の皐月賞まで13戦8勝2着4回のタケシバオーは、10戦5勝2着3回のアサカオーときさらぎ賞を勝ったマーチスとで3強と呼ばれた。
皐月賞はマーチスが勝ち、タケシバオー2着、アサカオー3着である。3頭の差が僅かの熱戦だった。その3強が牽制しあうのを尻目に、まんまと
逃げ切ってしまったのがダービーでのタニノハローモアだ。しかも2着タケシバオーは5馬身差をつけられてしまった。タケシバオーには悪夢の5馬身差である。
この屈辱を晴らさねばなるまいぞ。屈辱をバネにしたのかタケシバオーは、年明けて旧5歳の初戦こそ2着だったもののその後の8戦は負けることを知らなかった。
競馬場も距離も芝もダートも関係なしに、まさに競馬をタケシバオーの年にしてしまい、「怪物」の異名をほしいままにした。東京新聞盃ダート2100メートルや
オープンのダート1700メートルでのレコードも光るが、芝の京都記念2400メートル、オープン1600メートル。春の天皇賞3200メートル、英国フエア開催記念
スプリンターズS1200メートルと、まるで距離を問わない怪物ぶりで、「こんな馬は見たことない」とファンは異常な強さに呆れかえった。
とりわけ春の天皇賞馬の、1200メートルでのレコード勝ちにはたまげてしまった。1年のうちにレコード4回。史上初の賞金1億円馬。当時はGNP(国民総生産)が
世界第2位に躍進し、企業戦士の奮闘から、「おお!モーレツ」という流行語が生まれたが、タケシバオーにぴったりとあてはまるようだった。
と言う内容も残っている。大レースの勝ち鞍としては「天皇賞春」の1つだけではあるが「60キロを背負ってのレコード、2着に大差をつける圧勝」あるいは
「芝オープンのジュライステークスを65キロを背負って勝利」と言った様な「斤量にも負けない競馬」が出来る馬として「最強馬論争」に名前が出てくる
そう言った名馬の一頭と言う事が言える。所有していた陣営が「海外へと目を向ける」と言う「当時では珍しかった国際派の感覚」を持っていた為
3歳にしてアメリカに渡ってワシントンD.C.インターナショナルに出走。成績こそ不利を受けて芳しくなかった物の「皐月賞2着馬」「日本ダービー2着馬」が
「菊花賞をを蹴ってまで」アメリカに渡ると言う事は一種の賭けであるとも言える。結局は古馬になって渡った2回目の海外遠征が元で故障してそのまま引退。
種牡馬入りするも名馬を大量に送り出すと言う事もなく、むしろ「長い活躍が出来る丈夫な馬」を送り出したと言う様な形の産駒を多く輩出する事になった。
1992年1月12日に心臓麻痺で繋養先の北海道・競友牧場で急逝するも26歳と言うのは競走馬の場合「長寿」と言うに十分の年齢であり「亡くなるまでタフだった」
と言う馬だった。…と言う歴史があった訳でこの「最古のレコード更新」と言うのは「日本競馬の歴史にスポットが当てられた」と言う意味では面白い出来事。
タケシバオーの父チャイナロックはハイセイコーの父でもある。そう言う血統的な論点から見ても面白い出来事に再びスポットが当てられたと言う様な感触。