[ 宮崎談合:安藤知事を捜査へ 受託収賄容疑で 県警 ] 宮崎県発注の設計業務入札を巡る官製談合事件で、同県警は安藤忠恕(ただひろ)知事(65)について
受託収賄容疑で捜査する方針を固めた。建設情報コンサルタント「ヤマト設計」(東京都)社長、二本木由文容疑者(56)から直接、業務を受注できるよう
依頼されたことが「請託」に当たり、その見返りに知事の政治指南役だった元国会議員秘書、石川鎮雄容疑者(68)に「顧問料」名目で提供された
計約1000万円もわいろだった疑いが強いと判断したとみられる。今後、検察当局と協議し談合事件への関与と併せ最終的な検討に入る。
知事の収賄容疑が浮上しているのは、05年11月16日に指名競争方式で入札があった台風災害に伴う宮崎市田野町の県道復旧工事にかかわる
橋りょう設計の業務委託など。ヤマト設計と県内4社が指名され、同社が予定価格の94.2%に当たる724万5000円で落札した。
調べによると、ヤマト設計からは石川容疑者に04〜05年、「顧問料」として月80万〜10万円で計約1000万円が提供された。この資金提供について
二本木容疑者は安藤知事が初当選した後の03年9月ごろ、「安藤知事から『石川さんの面倒をみてほしい』などと依頼された」と供述している。
一方、二本木容疑者は安藤知事を何度も訪ね、橋りょう設計を含む複数の業務を受注できるよう依頼を重ねていたことが判明しており、県警はこれらの依頼が
請託に当たると判断しているとみられる。県警はこれまで、石川容疑者への顧問料が知事の意をくんだわいろだったとして第三者供賄(収賄)を
構成しないかについても検討したが、二本木容疑者が「知事あての金だった」との趣旨の供述をしたことなどから、実質的に安藤知事に提供された疑いが強まった。
また、県警はヤマト設計の落札に向け受注調整した疑いで逮捕された当時の県土木部次長、藤本坦容疑者(59)ら県幹部3人についても、安藤知事から
指示があったかどうか追及している。安藤知事、石川、二本木両容疑者をめぐっては、03年9月に知事の後援会から石川容疑者に「長年の指導に対する
コンサルタント料」として5000万円を提供。二本木容疑者が金を石川容疑者に運んでいたことが判明している。(船橋競馬をバカにした新聞)
ぶっちゃけ「宮崎県知事がやったかやってないか」はどうでもいい。それよりも俺としては「地方は痴呆」と言う説がまたもやこれで証明されましたね。
やってるやってないはともかく「こう言ったマイナス報道がされる事自体が宮崎県全体に対するイメージダウン」と言う事で「結果損失」となっている訳だが。
とりあえず、俺の「地方は痴呆」と言う論がまたもや証明された事に関して手を叩きひざを叩き握りこぶしを両手で作りながら「よっしゃー」とか言ってる様な感じで。
何故「地方は痴呆って言い切れるの?」とか言われたら「それは日本の歴史が教えてくれている」と言う事で。それだけ。
日本の歴史を見れば分かるんだが文献的な内容である程度残っているのはいわゆる平城京、平安京の時代。794年に平安京が誕生したとされる。
そこから先の日本の歴史を見てみろよと。平安時代には今の京都で政治が行なわれた。そして平将門〜平清盛〜みたいな流れで平家が誕生した。
しかし関東の方では源頼朝らを中心とした源氏が誕生した。壇ノ浦の戦いである程度の決着がついてそれ以降政治はいわゆる鎌倉幕府で行なわれる様になった。
鎌倉幕府が倒幕された後には再び京都での政治と変わった。要するに足利幕府の誕生ですな。足利幕府が失墜した後には戦国時代が始まり織田信長(安土城)
豊臣秀吉(大坂城)となって最終的には徳川家康が政権を握って江戸に徳川幕府を誕生させましたと。いわゆる江戸時代。そして明治の足音が聞こえる
そんな頃合いになって江戸城の無血開城が行なわれやがて徳川軍と新政府軍の戦いとなって函館の五稜郭で決着がついて徳川幕府は完全に崩壊。
明治時代のスタートになって「牛肉を食べる習慣」「ちょんまげや刀を捨てる様式」が成立しての明治時代になりましたと。この時に天皇は
京都御所から江戸城を皇居として移り住みました。そう言った流れ。そして明治から大正、昭和を経て現代の平成の時代に移り変わっていく…。
と言うのが現時点での日本の歴史のそれ。日本の歴史で文献が見つかっているそんな時代の流れの大半を実は「中央集権」時代が占めている。
要するに「日本と言う国自体が元々中央、要するにお上に対して何でもありの感覚」みたいな完全なるトップダウンの国であったと。平安京の時代から考えると
「京都→鎌倉→京都→大阪→江戸→東京→」と言う事で現代の日本の中心である東京都に移ると。794年に平安京が誕生された時代から現在の2006年まで
およそ1200年とちょっとの間「日本はずーっと何処か1ヶ所に政治の中心地を置いていた」と言う事。
そこを中心として人や物、あるいはお金みたいな物が集まってきたりあるいはそこから地方へと出て行ったり。と言った形をとってきた。いわゆる大名行列。
大名がそれぞれの領地に帰る。あるいは江戸にある自分の屋敷へと向かう。そう言った事も「行なわれていた」訳でこれが如何に当時の「江戸」が
権力を持っていたかと言うのも良く分かる。徳川家光がこの制度を実行した訳だよな。文献ではそうなっている。俺実際その時代生きていた訳じゃねぇし。
お前いくつだよ!って話にもなってくるからな。一応文献だとかではそうなっている、と言う事で。そう言った流れが日本にはある。
要するに「日本は1200年近くも中央集権のやり方を行なってきた」訳で。それをいきなり近代になったからと言って「地方に権限を与える!お前らがやれ!」
とかやった所で「1200年近くも染みついた中央集権の考え方」が捨てられる訳もなく。そうなってきたら「汚職もあり談合もありなんでもあり」の
カオスみたいな世界にしかならない。199×年、地方は談合の炎に包まれた…。みたいな事になっていくのがオチなだけ。それを知ってるからな俺は。
と言う事でそもそも「地方分権」と言うそれその物が「日本には向かない」と言う事がよーく分かる。地方が単独でまともな政治が出来る様になったら
そりゃあすげえインパクトだな。まさにディープインパクト。誰が上手い事言えと。上手いことオチもついたので今回はこの辺で。それではまた来週(来週かよ)