[ 響く銃声、教室はパニックに…米大学銃乱射 ] こんな静かな大学町でなぜ?米バージニア州の名門・州立バージニア工科大学で16日起きた
米史上最悪の銃乱射事件は、約2万6000人の学生たちを恐怖の渦にたたき込んだ。自殺したとされる犯人像が依然不明の中、留学生らからは、大学の
危機管理能力の不足や米社会の銃規制の甘さに対して、非難の声が上がっている。バージニア工科大のあるブラックスバーグは、首都ワシントンの
南西約400キロ、アパラチア山脈と並行して走る山脈群のふもとに位置し、付近には馬や牛を飼育する牧場が広がるのどかな一帯だ。
パニックになった教室に警官がなだれこみ、林さんらは荷物を残したまま鍵のかかる別の部屋に移動させられ、その後、全力で走って校舎から逃げ出した。
「米国では治安のよい所だと思っていたのに、これじゃ怖くて学校に行けない」と林さんは読売新聞に怒りをぶちまけた。同じ校舎の近くを通りかかった
2年生のマット・ウォルドロンさん(19)は、イヤホンで音楽を聴いていて最初銃声に気づかなかったが、別の校舎のドアが開いて教授が「全員この中に入れ」
と叫んだのでほかの学生と一緒に慌てて避難した。その際、乱射のあった校舎から飛び降りた学生たちが足にけがをして運ばれていくのが見えたという。
バージニア工科大では昨年8月に付近の刑務所から逃亡した受刑者がキャンパスの近くで警官を射殺する事件が発生、先週にも爆弾予告があり
警備を強化したばかり。だが、この日は学生寮で発生し死者2人を出した午前7時過ぎの1回目の乱射事件から、校舎でおきた2度目の事件まで
約2時間半の余裕があったにもかかわらず、大学当局はその間学生に電子メールで警戒を呼びかけただけだった。一方、自宅のアパートにいた
埼玉県出身の2年生、寺田純子さん(23)は「事件がおこってすぐ日本人の留学生仲間で連絡をとりあった」と話す。また、三重県生まれの2年生
レア拓人さん(20)は事件後、寮から出るのを禁じられ、携帯電話も通じなくなった。拓人さんは「銃の保持が認められ、扱い方も容易に習得できる
米国の“銃文化”が事件の背景にあるのではないか」と疑問を投げかけた。(2007年4月17日15時49分 ゴミ売り新聞)
[ トウ小平秘録12 天安門事件、悲劇の序曲 ] 1989年4月15日、前総書記の胡耀邦(こようほう)政治局員(当時、肩書は以下同)が
死去した当時、中国国内の政治・社会情勢は不安定さを増しており、改革派の胡氏の死が何らかの騒動の引き金になる予感は多くの人がしていた。
しかし、あれほど急激に大規模な運動に発展すると予測した人はいなかったろう。胡氏死去翌日の16日夕、北京大学の壁新聞を見に行った。
「三角地」広場の掲示板は壁新聞で覆われていたが、学生は少なく、取材する外国人記者ばかりが目立った。研究生(大学院生)の1人に
「デモはやらないのか」と聞くと、意外な答えが返ってきた。「やりたいんだが、難しそうだ。前夜から呼びかけてはいるんだが、本科生の
多くは尻込みし、中にはわれわれに空き瓶を投げて抵抗する連中もいるんだ」当時の大学生は全国で1学年60万人前後、現在の10分の1ほどしかいない
エリートだった。世の中は「向銭看」(金銭第1)に変わり、政治のにおいがする動きは敬遠する傾向が強かった。トウ小平(しょうへい)氏が
この年2月に訪中したブッシュ米大統領に「絶対的多数の学生は安定を支持している」と述べた通りだった。(このくだりは「トウ小平文選」にはあるが
「トウ小平年譜」では削除されている)それが翌17日に中国政法大学の職員、学生による追悼デモの後、一変する。
デモを組織した1人、呉仁華(ごじんか)研究生はその経緯などを2004年に出版された「浴火重生」(明鏡出版社)で明かしている。
「胡耀邦の訃報(ふほう)に悲しむ若手教師の間に、天安門広場に献花する考えが生まれた。16日に花輪をつくり対聯(ついれん、哀悼の対句を書いた掛け物)に
『耀邦千古』(胡耀邦は永遠に)と書き、マオタイの小瓶をつるした。それを校門に飾り、『献花参加希望者は17日午後1時に校門に集合』との
無記名の張り紙を出した」六、七百人が徒歩で天安門広場に向かう。「途中、インターナショナル(革命歌)を歌い、シュプレヒコールを続けたが、胡耀邦追悼と
民主と法制を要求するスローガン以外は禁じた」という。沿道の市民らが列に加わり、5時ごろに広場に到着したときは四、五千人になっていた。
呉氏らはトラブルを回避するため、人民英雄記念碑への献花後、インターを合唱して解散する。後にこのデモは「反革命扇動」の発端とされる。
「英霊を祭るため」花輪につるしたマオタイの小瓶が理由だった。小瓶は小平と同音で、トウ小平氏を侮辱、攻撃した、と。「その夜遅く、北京大学構内
28号楼付近で突然、食器などを打ち鳴らす音がし『デモに行こう』との叫び声が聞こえた。三角地に行くと、1000人ほどの学生が集まり、熱気であふれていた。
28号楼の上階から巨大な対聯が下げられた。『中国魂』とあった」当時、北京大の博士課程研究生だった李進進(りしんしん)氏は、「浴火重生」に
同大のデモ開始時の模様をこう書いている。北京大の1000人は真夜中に出発、天安門広場に到着したのは18日午前4時ごろだった。
途中、人民大、清華大の学生も合流、数千人の規模になっていたが、大半はほどなく当局側が用意したバスで順次帰校した。しかし200人ほどの学生や
研究生は残って、今後の対応をめぐり熱心な討論を続けた。その結果、全国人民代表大会(全人代)常務委員会に意見書を出すことになり、胡耀邦氏の再評価など
7項目の要求がまとまる。そのとき、学生代表に選ばれたのが、以後学生運動の最高指導者になる北京大生の王丹(おうたん)氏だった。
王氏らは18日午前8時すぎ、人民大会堂に入り、全人代常務委事務局に請願書を手渡すと同時に、常務委指導者との面会を求めた。面会が実現したのは
18日夕だった。劉延東(りゅうえんとう)常務委員(現党中央統一戦線部長)は請願書を受け取り、「全人代に手渡す」と述べた。「それで一段落したと思った」
と劉氏と面会した李進進氏は書く。しかしそうはならなかった。天安門広場には続々各大学のデモ隊が押し寄せていた。やじ馬も加わり午後9時ごろには
2万人近くに達し、人民英雄記念碑の台上は人でいっぱいになった。北京の動きが地方に波及するのに時間はかからなかった。上海、天津、西安などで
胡耀邦追悼の集会やデモが18日に始まる。特に西安では学生デモと警察との衝突事件も起こったが、北京では混乱はなく、スローガンも胡氏追悼が基調だった。
それが変わる最初の事件は18日午後11時前に発生する。約2000人の学生が中南海の正門である新華門に集合、李鵬(りほう)首相との面会を要求して
突入を図り、警備側と衝突したのだ。悲劇の序曲が鳴りだした。7項目要求(1)胡耀邦の政治成績の公正な評価(2)「反精神汚染」「反自由化」運動の否定
(3)国家指導者とその子女の資産公開(4)民間新聞の発行許可、報道禁止の解除、新聞法の制定(5)教育予算増と知識分子の待遇改善
(6)デモ規制を定めた北京市条例の廃止(7)今回の活動の公開報道(産経新聞)
六四天安門事件(ろくよんてんあんもんじけん)とは、1989年6月4日に中華人民共和国の北京市にある天安門広場に集結していたデモ隊が「人民解放軍」によって
鎮圧された事件である。天安門広場では、胡耀邦の追悼集会を契機として、1989年4月ごろから学生が民主化を求めてストライキを始めたが初は学生だけの問題と
報道され、中国国内では重要視されていなかった。この活動が中国全土に広がっていったのは、天安門広場でカンパを集め始めたころからである。
「4月16日」「米大学銃乱射の日付と犯人像」で特亜がバカやった事が確定した件について。