2008年01月15日(火)こんな事がありました。

[ 山本氏のメッセージ(現在は削除):「ヤッターマン」についてファンのみなさまに報告 ] 話しは21年前に遡ります。1986年11月20日、アメリカ合衆国テキサス州
ヒューストンNASAを、私と、私の親友・諏訪道彦君は、ワクワクと探訪しておりました。諏訪君(以後・すわくん)と私の出会いは「ロボタン」というアニメでした。
そのEDの作詞を私が担当し、そのプロデユーサーが、すわくんでした。二人は同じ愛知県、しかも同じ三河人同志、すぐにうちとけ、ドラゴンズ話しにも花が咲き、
すわくんは新しいアニメのグッズができればすぐに中野の我が家を訪れ、トレードマークのジュラルミンのケースからテレカなどを出してはニコニコしておりました。
そのうち私が1ヶ月の間、アメリカに渡ることが決まり、当然得意の三河弁で「どうだん、あんたもアメリカにいきゃへんかん?」とすわくんを誘いました。答えはもちろん、
「いくいく、いっしょんいこまい」でした。そして、私は一足先にニューヨークに入り、後から来米したすわくんと、肩組み腕組み、アメリカ大陸横断の旅に出るのでした。
ニューヨークをアムトラックで出発して、フィラデルフィア、ワシントン、国内線で冒頭のヒューストン、そしてディスティネーションは、カントリーウエスタンの町ナシュビル。
最後にニューヨークに戻る飛行機の窓から見た摩天楼の夜景は、この世のものとは思えなかった。そして21年が経ち、そのすわくんから電話が来た。「ひさしぶりに、
山本さんとお仕事できます!」って。それがこの度の読売テレビ・タツノコプロ制作の「ヤッターマン」、という、ちょっと長い前振りでした。いろいろな不安や疑問が、
歌手・山本正之のファンのみなさまに、今、存在しているかもしれません。ここに、その、みなさまの気持ちを大切にした、新作「ヤッターマン」の、始動から
ここまでの、報告をいたします。シークレット期間が明けたので(笑)。最初の会議。読売テレビから劇伴音楽の制作と主題歌の使用を依頼される。ただし、劇伴音楽は
私と神保正明先生の他に、新しい若い音楽家の導入を発案される。これについては私もある程度の同感を持っていたので、了承する。細かい振り分けについては
後日。主題歌は、「使用」である。つまり、あのオリジナルの「ヤッターマンの歌」を、歌手を変えて、新たに録音したいとのこと。これについても、私はある程度の
同感を持っていたし、読売テレビ側の「歌手も、新しい、若い人、たとえばアイドルなどを起用して、ヤッターマンをまだ知らない、現役の高校生や、いやもっと、
小学生、こどもたち、を虜にしたい」という熱意も伝わり、私は、私の、命の次の次、くらいに大切な、この「ヤッターマンの歌」を、他者に委ねることを、快諾した。
しかしこの時、もうひとつの別の提案も発表される。「ヤッターマンの歌」は第一期、9話まで。その後は、誰の作品によるものかは未定という。私、確認、
「では10話から後は山本正之以外の作家が作った主題歌が流れるのですか?」、読売テレビ「そうです。」。私ひとこと、「このお話し、成立しません。」、しばらく、
意見の交換があったあと、テレビ側「わかりました、最後まで山本正之の作品でいきましょう、新曲を作っていただくか、もしくは、ヤッターマンの歌、をクールごとに
歌手を変えて。」、そして私は了承。尚、EDについては、極初の段階から、山本正之は無関係、ということ。しかし納得。みなさまもご存知のように、近今のテレビアニメ、
主題歌は切り売りである。入札に近いセールで、制作費の一端を賄うのは、しかたがないし理解する。誰かステキな歌手が、笑い夢見たアニメのあと心地を、すっと普段に
戻してくれたら、それでいい。と、想気を放した。、ここで会議終了。そして知らされたこと、実は、すわくんはチーフプロデューサーであって、実務は若い社員が担当し、
すわくんはそれを監修しつつ、私との連絡に奮働すると。二度目の総合音楽会議。この日の前日、インターネットに「ヤッターマン主題歌を歌いたい有名人募集!」
の記事が載る。もちろん私は全く関与したらず。このデリカシーの無さに憤り、会議の席上で抗議。しかし記事は掲載されてしまったもの、戻しようが無い。
つまり、単なる抗議。そして、その歌手の、いつのまにか作られていたデモCDを聞く。「えええええ、え?」が、その時の感想。アコースティックギターの演奏に乗って、
「ワンとほえりゃー」が流れる。歌声は力強くて可愛くもある、が、ところどころメロディーが間違っている。「メロ、まちがってますね」と私、「ええ、なおします」と、
現場プロデューサー。このデモテープの歌手、ロックバンドとしてデビューし、大ヒットしてスターになった年が丁度1977年のヤッターマンの年であり、「ヤッターマン」には
特に強い思い入れがあるとのこと。「この歌手でいこうと思います。」と、現場プロデューサー。、あれ?、若い世代を虜にするんじゃなかったの?77年デビューだったら
私とほとんど同じくらいですよね。、現場プロデューサー「かねてから山本さんがおっしゃっているように、オールドなファンにも注目していただきたいので」。、
あれあれ?んんんんんーーー、まあ、いろいろ事情があるのでしょう。また、当社ベラ・ボーエンタテインメントに、入札に参加する予算があるはずもないし、始めから
入札のお誘いも無かったし、ね。さて、この日聴いたこのデモテープを、私は、本当に、デモテープ、だと、思い込んでいたのでした。続いて、BGMを手伝っていただく
「若い音楽家」のデモを渡される。私としては、是非弟子藤原に、と考えていたが、これも、もう決定されていた。万事がこういうやり方なのだな、と、この時初めて気づく。
が、しかし、このデモ、自宅仕事場に帰り、聞いてみると、結構良い。特にブラスの音と、リズム体の動かし方、きれいなやさしい音色の選び方、藤原に並ぶくらいに、
なかなか良い。即、すわくんに電話する。「もう決まってることだろうけども、この人でOK、だでね。」、この劇伴音楽の割り振りは、神保正明先生と会議を持ち、最終的に、
次のように決める。正義のヤッターマン部門Aグループは、昔通り神保正明が作曲編曲(アフレコディレクターから来たメニューにはたくさんの昔の楽曲の再録音が
指定されていた)。、三悪の部門Bグループは、これまた昔通り山本が。そして情景、心理、戦闘などのCグループは、これまたこれまた昔通り、神保、山本が半分ずつ。
だが、ここで昔とちがうところは、山本の担当曲の編曲は、おおざっぱな組み合わせのマスターリズムを私が書き、あとは全て、新参加の深澤秀行氏にお願いした。
そして三度目の会議。これは会議というよりも、顔合わせ。私は、新中野の神保先生のお宅に寄り、大切な彼のスコアを預かって、もちろん自分の作品のマスターリズムも
抱えて、新宿のとあるホテルのラウンジに行く。そこで深澤氏と対面。好感。全部のスコアを渡す。彼の仕事は、私の作品の編曲と、神保先生の作品の微調整と、全曲の
マニュピレイション(打ち込み)。少しの打ち合わせ。少しの歓談。会議終了。いい気持ち。そしてその数日後、悲しい事態が発覚する。新宿の夜、こじゃれたイタリアン
レストランで、私とすわくんは、あさりのリングィーネや、イカのスパゲティを「うまいねえー、ふんとにうまいねえ」とのたまいながら、シチリアの赤ワインを
いただいていた。そのシチリアの、赤が、白に変わる頃、ふと、私が言った。「そういえば、OPENING、どうなっとる?」「え?どうって、ちゃんとやっとるみたいですよ」
「ええ?やっとるの?」「はい、やっとります。」私はすでに業界では古い世代に入る作家である。それだからそれなりの、仕事の仕方の不文律がある。それは私だけでは
なく、この世代の作家みんなが、持ち合わせているはずのものである。私はすわくんに閑言した。「歌を録るということは、まず、担当(ディレクター)が、歌い手を
作家に紹介し、歌い手が作家に挨拶し、作家もこれに応えて挨拶し、この三者に加えて諸々のスタッフの都合を整え、スタジオをキープし、連絡をし、関係者全員の中で、
和気あいあいと、楽しく、そして厳しく、行われるもの。」と。確かに、今はちがうらしい。現場プロデユーサーひとりの判断で自由に録音し、完成、だそうだ。しかし、モノは
「ヤッターマンの歌」である。今これを読んでいる、キミ、あなた、が愛して止まない、正義の愛唱歌、「ヤッターマンの歌」である。結局、まに、あわなかった。
正確に数えて4日後、深澤氏作業の劇伴録りスタジオに出向き、そこで、現場プロデューサーより、2008年1月14日放送の、新作アニメ「ヤッターマン」の
オープニング主題歌を聞き受ける。それは、あの時、私がデモテープと思い込んでいた、あの録音物の、メロディーのまちがったところが直された、もの、。だった。
「もう放送にまにあいません。これでいきますので。」その声に落胆し、私は、無理に笑顔を作って、スタジオに背を向けた。積もり始めた落ち葉の歩道を、時々
空を見上げて、千歳船橋の駅まで、私は歩いた。30年の時を経て、またヤッターマンが、ファンのみなさまに届けられる、そこだけを、喜び、勇んでいた。誰が歌ってもいい、
ドロンボーが、またブラウン管、いや、液晶やプラズマの画面で大暴れするんだ、と。そこに、魔がさ刺していた。失敗をしたのは、むしろ、私だ。迂闊だった私だ。
そう後悔させて、このオープニングは、世に出る。もしかしたら、ものすごく好評かもしれない。現在を知る若手の腕利きプロデューサーが完成させたのだ。私の目に
何かのマスクがかかっているのであろう。そう自戒させて、このオープニングが、世に出る。私の悲壮の終結は、「もうヤッターマンは、切り捨てよう」、とまで、落ちた。
そして以降、読売テレビ制作側からの電話に、私が出ることは無かった。しかし、すわくんが、私のこの自棄を、止めてくれた。あの、ヒューストンのNASAに着くまで、
ホビー空港から乗ったタクシーの、フロントガラスの弾痕に恐れながらも、宇宙の始点への憧れを、共に望んだ、すわくんが、一生懸命になってくれた。「次までに、
もっと会って、もっと話して、もっと考えて、もっともっと、ヤッターマンを愛します。」私は、邪気を払った。「もう一度考えよう、これからを、考えよう、
ファンのみなさまの心を、考えよう。」、と。タイムボカンの、ファンのみなさま、、どうぞ、たくさんのご意見を読売テレビに寄せてください。叱咤も、激励も、
自由に送ってください。タイムボカンシリーズは、ファンがつくるテレビアニメーションであります。想えば三ヶ月以上に渡って極秘とされてきた、このヤッターマン情報、
やっとみなさまに報告できました。これで持病のストレス性不整脈から開放されるぞ、ヤッターーー!、アチョーーー! ホヨホヨホヨホヨッ!!(以上引用終わり)

2008年01月15日(火)21時20分50秒