[ うなぎとサーフィンと私は貝になりたい ] そういえば、橋下知事ではないが、僕も、昨日の在京県人会や移住セミナーで朝日新聞・宮崎版のK記者の悪意性・
私見性・恣意性に満ちた記事・論調について、疑義を述べさせて頂いたが、これと言って記事にはならなかった(笑)。(別に記事にして欲しいとは決して思って
いない)あくまでも一部であるが、メディアの中のああいう人間はその新聞社とか雑誌社とか、その社風とか言う前に、元々ああいう性質の人間性なのだろうと
思う。まぁ、それに対して何を言っても今更始まらないことも重々理解しなければならないことは承知している。それにしても、ああいう人間が社会にいることが
残念で、その中で仕事をしなければならない自分の境遇を憂い、寂しく思う。まぁ、社会学的に見れば、これも社会の有り方なのかも知れないが。(東国原英夫 10-19)
[ 志願兵 ] 定例記者会見で、ある記者から、信じられない見識を疑うような質問が飛んだ。「一昨日のブログで朝日新聞のK記者を名指しで批判したのは
個人攻撃ではないか?」・・・・・まぁ、僕は、あくまで実名は出してないが・・・・・・朝日新聞のK記者は、僕に対して「オオカミ少年」や「言葉が軽い」など、
著しく名誉を毀損する内容の記事を勿論名指しで書いた。また、彼は自分の名前を出して記事を書いている。その事は責任の所在を明らかにするという意味で
正しいし潔いし情報開示性も高い。当然、そこには書いた内容に責任が付加される。朝日新聞という公の情報発信機関で自らの名前を出して記事を書くということは、
極めて公共性が高い。つまり、既にその記者は公共的公人といってもいい。僕も公人であるなら、その記者も公人である。そして僕もそうであるが、自分の言ったこと
書いたことには責任を持つ立場である。僕は公人であるから、公共性の高い言論機関での提言や批判も甘んじて受ける覚悟である。公人としての発言は個人の扱いを
受けない場合が多い。だから、このブログで述べたことや平素の言動には責任を持たなければならない。公共性の高い定例記者会見でも、このブログに関しての
個人的的(的は二つ)な質問も受ける。その記者も同じである。つまり自分の書いた記事に対して様々な意見や感想がぶつけられることは当然であり、真摯に
甘受しなければならないだろう。そして、それに対しての説明責任も当然付与される。よって、その記事に対して、記事で批判された僕がこのブログ上(公の場)で
提言や意見を述べることは極めて正当な行為だと考える。恐らく、内容は純粋理性批判やシニカル理性批判というパラダイムであろう。本日、県民ブレーン座談会
(観光関係)の出席者が「私達は志願兵である」という発言をされた。観光塾生で、観光促進に非常に熱心な彼女が、観光促進に自発的に心血を注ぐ自分達の行動と
行政の取り組み態度の違いの理由を「自分等は志願兵であり、行政職員は徴兵である」と表現された。言わんとする意図は少なからず的を得ていると思った。
思えば、僕も志願兵である。宮崎のことを、地方のことを憂い、「どげんかせんといかん!」と思い、知事選に自ら手を挙げ、志願した。志願兵と行政との間、
或いは、志願兵と議会の間には温度差があるのだろうか? まさかそんなことがある筈も無いと思うが、今回のことに関しても、議員の方々や職員の方々が、
メディア(特に紙媒体)で、様々なインタビューに応えておられるようである。僕は、県民、議会、職員、皆、宮崎や地方を良くしたいと思う気持ち、志は同じだと
思っている。とにかく、だから、僕としては、弱音は吐かず、今は、県政発展に全身全霊を傾注し邁進して行こうと考えている。しかし、その志願兵を意味不明で
かつ恣意的な根拠で狙い撃ち、批判・攻撃してくる連中がいる。志を持ち、夢を持ち、ビジョンを持って志願して来た意気軒昂たる兵士の足を引っ張り、引きずり
降ろそうとする連中がいる。(いつの時代でもどこにでもそういう輩はいるものだが・・・・)僕は闘う。その連中は、何を恨み辛みに思っているのか分からないが、
或いは単なる低次元の妬み嫉みなのか、私利私欲や権力欲に溺れ、宮崎の発展や地方の再生や国家の繁栄を阻もうとするものと、命を賭して徹底的に闘う。
宮崎の発展の遅れは、そういう人間によって齎された。県益・地方益のため、闘うことは、志願兵としての使命であると考える。以上の文章は、急いで書いたので、
論理的に欠陥があるかも知れない。その批判はまた甘んじて受けよう。(東国原英夫 10-21)
天に唾を吐いてきたサヨクどもの断末魔が秋の夜長に心地良い。