[ 兄と連携ない「政府に尋問の筋これあり」…鳩山発言要旨 ] 私は(日本郵政が)不透明で悪事を働いていたことを世の中にはっきり説明してきた。
西郷隆盛は征韓論の時、最後に「岩倉公、誤てり」と叫んで政府を離れた。正しいことが通用しないと思ったら、潔く去るのがいいんじゃないか。
明治6年(1873年)8月、岩倉不在の留守政府では西郷隆盛が依然鎖国政策をとって開国を拒否する李氏朝鮮に軍(一説に平和的使者)を派遣して開国させるべきだと
主張してこれに三条が閣議決定を与えていた。三条が閣議決定を明治天皇に奏上しようとしたが、天皇は岩倉の帰国を待ってより熟議したうえで奏上に来るよう命じた。
岩倉は9月に横浜に到着。この論争を聞き、すぐに内務優先を唱えて征韓論に反対の立場を表明した。朝鮮を敵に回すことは清も敵に回すことであり、今の日本には
勝ち目はないと考えた。海軍卿の勝海舟も「日本には依然軍艦も輸送のための船舶も不十分で海戦はできない」という見解を示した。また大蔵卿の大久保利通も
「もし勝ったところで戦費に見合うだけの国益があるとは思えない」として反対した。しかし閣議は主席の三条のどっちつかずの態度もあって議論が紛糾した。西郷も
岩倉も否決された時は辞職を願い出る構えを見せたため、三条は進退きわまり、10月19日に錯乱状態になり寝込んでしまった。翌日、右大臣の岩倉が代わって太政大臣
代理となり、10月22日にはその権限を持って西郷隆盛の意見を退け征韓論をお流れとした。不服とした西郷は参議・近衛都督を辞職して鹿児島へと帰国していった。
西郷派の板垣退助、江藤新平、後藤象二郎らも辞職した。これ以降、征韓論を支持する不平士族から政府への不満が噴出し、明治7年(1874年)1月14日夜8時過ぎには
赤坂仮皇居から退出しようとした岩倉が不平士族の暴漢武市熊吉(高知県士族)に襲撃される事件が発生(喰違の変)。岩倉は負傷したが命に別条はなかった。さらに
2月1日には佐賀で江藤新平をかついでの不平士族の反乱(佐賀の乱)が発生する。そして明治10年(1877年)には西郷を担いだ西南戦争が勃発することになる。
墓穴を掘ったな、鳩山。これで風は麻生に吹いた。「徹底的には叩かない」麻生の優しさを反故にした鳩山の行動の罪は重い。