[ 木村拓也コーチ死去…「タクヤーッ!」原監督絶叫、号泣 ] 巨人の木村拓也(きむら・たくや)内野守備走塁コーチが7日午前3時22分、くも膜下出血のため
広島市南区の広島大病院で死去した。37歳だった。2日にマツダスタジアムで行われた広島戦の試合前のノック中にくも膜下出血で突然倒れ、意識不明の状態が
続いていた。悲報に涙を流した原辰徳監督(51)は甲子園での阪神戦前に同コーチの名前を叫び冥福を祈った。深い悲しみの中、チームは一丸となって手向けの
白星を贈った。心の底から叫んだ。「タクヤーッ!」。甲子園が開門された午後4時。普段のような観客を迎える音楽はない。練習開始前、原監督の提案で行われた
二塁守備位置での黙とう。「みんなで拓也の名前を呼ぼう」と話して絶叫した指揮官に首脳陣、選手も続いた。静まりかえった甲子園の上空にナインの声が響く。
それに対する返事のように、雲間からは光が差した。午前6時。原監督は清武球団代表から電話で悲報を受けた。兵庫県内のチーム宿舎で行われた会見では
「何とか奇跡を起こしてほしいと思っていた。今年からコーチとして力が増えたと喜んでいたんですが…。非常に残念です」と涙を流した。木村拓コーチは2日の
広島戦(マツダ)前のシートノック中にくも膜下出血で倒れ、広島市内の病院に運ばれた。意識不明の重体で危険な状態が続いたが驚異の生命力で5日間も闘った。
同市内に住む家族、地元の宮崎から駆け付けた両親、母校・宮崎南高校野球部の同級生らに最期をみとられた同コーチは、由美子夫人の意向で今季からの
背番号「84」ではなく現役時代の「0」のユニホーム姿で自宅に帰った。37歳の早すぎる死。本職は二塁ながら昨年9月4日のヤクルト戦(東京ドーム)で
10年ぶりに捕手を務めるなどチームに貢献した同コーチには、原監督も思い入れが強かった。昨年10月10日の広島との最終戦(マツダ)。消化試合とはいえ
広島・緒方の引退、ブラウン監督の最後の采配もあり、球場は超満員だった。指揮官は同コーチを6回守備から二塁で起用。この時点ですでにコーチの打診を行うと
決めていた原監督は「“タクにとっては最後の広島だなあ”というのが頭の片隅にあった」と明かしていた。2月の宮崎キャンプでは「タク、ノッカーとして日本一、
世界一になれ」と命じた。同コーチは片時もノックバットを離さず、夜間に緒方外野守備走塁コーチから指導も受けた。だから今季初の広島戦だった2日は
コーチとして故郷に錦を飾る舞台だった。ファンだけでなく、広島ナインも見守る中でのシートノック。前のめりに倒れても、バットは離さなかった。
[ 古巣・広島“木村魂”継承誓う ] 木村拓コーチが現役生活19年間のうち11年以上在籍した古巣・広島も悲しみに暮れた。神宮でのヤクルト戦を控えたチームは、
都内の宿舎で黙とう。その後のミーティングで、野村監督は「彼の闘志、そして野球を愛する気持ちを受け継いで、グラウンドでプレーする。それがわれわれに
できることだ」と、ナインに向け強い口調で呼び掛けた。2日の試合前に同コーチと言葉を交わしたという指揮官は「(木村拓コーチの)家が広島なので帰ったのかと
聞いたら、朝早く帰ってきたばかりでまだ、とのことだった。子供が楽しみにしているだろう、と話したのが最後だった」と振り返った。その上で「いろんなポジションを
こなせて、これだけチームを助けられる選手は今後出てくるかな、と思う。悔しい」と唇をかんだ。また、プライベートでも親交があった浅井打撃コーチは「子供も
同じ学校に通っているし」と涙を流しながら話した。 ▼広島大野ヘッド兼投手コーチ 現役時代も一緒だったし、アテネ五輪でも一緒だった。情熱があり、
チームの雰囲気をつくってくれた。奇跡を信じていたけれど、残念としか言いようがない。 ▼広島高橋 引退されたので、オフにタクさんの家族と一緒にパーティーに
参加させていただいた。元気な姿だった。一緒に頑張ってきた仲間。あの小さな体で何でもやる男だった…。残念です。 ▼広島石原 ショック。一緒にやって、
いろいろな思いがある。入団してからいろいろと声を掛けていただいて、近くで見てきた。凄く熱い方でした。 ▼広島東出 二遊間も組んだし、1番、2番も組んだ
間柄だった。気持ちの強い人だった。マツダスタジアムも悲しみに包まれた。木村拓コーチ死去の報を受け、球団職員約50人が同コーチが2日に倒れた本塁付近に
集まり、松田オーナーが献花。その後に全員で黙とうし、哀悼の意を示した。同オーナーは「捕手、外野手、内野手、スイッチヒッターと自分が必要とされる場所を探し、
挑戦し、それを成し遂げた人でした。苦労した経験を生かし、いいコーチになれると期待していただけに本当に残念です」と早すぎる死を惜しんだ。