2010年08月28日(土)ネガティブハッピーキッズ

午後から外出。向かう先は藤岡市。最近特に書いている内容の傾向。「人間は生育環境でセンスの大半が決定付けられる」と言う内容を俺は書いている。

その「生育環境が決定付ける人間のセンス」上、東京都出身の人間がブログを書いたりなんだりすると、そのセンスが東京を中心としたブサヨマスゴミのそれらと
似通ってしまってくる。東京モン(都会モン)のセンスが薄汚く感じる田舎モンとの軋轢が生まれてくる。その結果「東京都出身の奴が疎ましく感じる」事になる。

一例を書いておくか。普段東京に住んでて堆く積もった雪を見た事が無い!と言う人間がたまに雪山の方面へ向かうと「雪だー!」とかホザく事になる。
「それ」を雪国の人間が見聞きした場合「ハァ?雪なんて特別珍しいもんでもねぇだろおい」となる。この違い。「センスの大半が生育環境で決定付けられる」一例。

この流れ。俺はその都会モンの流し方が嫌いなんで。かと言って田舎モン特有のセンスに甘んじるつもりも無い。そうした概念の具体的な提示が今回の外出の理由。

外出して向かった先は藤岡市にあるfeelと言う名前のショッピングセンター。…と言えば聞こえはいいが要するに田舎特有のセンスが光る平屋デパート。

とまむさんが考える「都会的センスと田舎的センス」の違いを決定付ける最大級の内容は「経済圏」の3文字で説明が可能なんで。以前にも多少は書いた訳だが
内田彩がテレビ番組で群馬県が取り上げられましたよー的な内容をブログに書いていた訳なんだが「群馬県」と言うカテゴライズで物を見るのは非常に危険で
最低でも「群馬県何々市」と言う様な市町村単位で物を見ないとひとくちに「群馬県」と言ってもその場所その場所によっての生育環境はまるで異なると言う事で。

その「ひとくちに群馬県と言っても全く異なる生育環境で他人に説明して分かって貰える具体的な指標のひとつが『経済圏』と言う考え方」となる。
分かりやすく書けば「新しい店をバンバン建てたり既存の店をリビルドしたりして儲けが出るだろうと法人が思える様な土地かどうか」と言うのが最大級の指標。

「都会と田舎を分ける最大級の指標」だと俺は思っている。群馬県内なら便宜上ではあるが「前橋市、高崎市、伊勢崎市、太田市」と「それ以外」ぐらいの分け方を
俺の中では採用している。暴論ではあるが「細かく考えすぎても話は全く進まない」今回は「それ以外」の所に目を向ける事とする。藤岡市に今回外出した理由。

1:リビルドの対象とされやすい経済圏では昭和の様なセンスが駆逐され、全体的には都会のそれに近いセンスの建物が生まれ「田舎臭さ≒昭和的センス」が消える。
2:リビルドの対象とされにくい経済圏では昭和の様なセンスが生き残り続け、全体的には田舎のセンスが幅を効かせる「田舎臭さ≒昭和的センス」が残る。

こうなる。それの確認。「昭和的センス」って何?の確認。その為の外出。別に昭和をバカにしているのではなく他人に説明する時に分かりやすいセンテンスを使って
説明するのは常套手段。と言うだけの事なんで。…さてそう言う訳で外出して到着。「昭和的センスってなんですか?」とか言う事でそれを以下具体的に説明する。

「和式便器とタイル床」「外光を取り入れると言う概念の無い平屋建てコンクリ建物」「田舎のパーラーにある様な椅子」「アナログテレビを使って宣伝するCDショップ」
「色あせたポスターや調度品」「店の看板のフォントや配置と言った構図」「駐車場のコンクリの隙間から雑草がぼーぼー生えている」「建物の配置の乱雑さ」

と言った所か。これが「田舎的センス」を代表する様な中身の内容。別にそれをバカにするつもりはない。都会がなんでもかんでも優れていると言う訳ではなく
都会の人口過多による他人からの目と言う意識が強すぎる厚化粧だとかを中心としたキレイキレイに「しすぎる」系と言うのも自分は評価していないんで。

でもとまむさんfeelは平成に作られた建物ですよ?とか言われたら「看板センス」「建物センス」「ネーミングセンス」が昭和臭い。と書いておく。何故そうなるのか。
答えは簡単で「設計」「デザインコンペ」の抽出を行った側と言うのが典型的な「昭和の人間」だから。平成元年生まれが今21歳か。今はそう言う時代だから。

田舎に行っても違和感が無い。都会に行っても戦える。「過剰に田舎臭いイモ的センスでもなければ都心によるあるキレイキレイにしすぎる系のセンスでもない。」
一言で説明すればそんな風になる。「俺はそのセンスで行く事にするわ」と言う方向性の決定が今回の外出で定まった。特定の地域でセンスを凝り固めない。
そうした頭をゆすぐ行為を行うには「旅に出る」しかないと思っている。生育環境の違いで人間はセンスがほぼ決定づけられる。良いか悪いかの如何に関わらず。
センスと言う物を疑い始めたらきりが無いが、多少なりとも違うセンスを見聞きする事は割と重要だと考えている。この「両方」を併せ持つ。ネオ日本人たる俺のやり方。

それの実践。そう思って帰宅。もう1つの用事をこなすだけ。とか思って帰宅の途。帰宅する事が用事ですか?とか聞かれたら「外に出る事をも1バイトと2バイトの
両輪で回していく方向を使う」だけの事なんで。要するに 「行きはよいよい帰りは怖い」 何故そうなるのか。そのワードそのものが典型的な2バイト思考の病巣。
2バイト思考を否定する訳ではなく2バイト思考しかないと「行きはよいよい帰りは怖い」 になってしまう。「怖くない。外に出る事は特別そんなに怖くない」様にする。

日本人の典型的な2バイト思考の場合、割と最初から飛ばして後半持たないと言う事が多すぎる。自転車を漕ぐにしろマラソンをするにしろ最初から全力で飛ばして
後半バテてしまう事で後半の出来事がおざなりになってしまう。「おざなりになるから注意力が散漫になって結果危ない目に合うから帰りは怖くなる」となる。

つまり「最初から飛ばした所で最後まで持たない。前半は割と先行集団を見ながら力をセーブする様な感じで進んで後半に入れば最後までスパートを掛ける」となる。
こうした「最初から飛ばすと最後まで持たない→体力と言う物のロジカルな考え方」と言う様な1バイト思考が無いから帰りが怖くなる。これを簡単に書き直すと

「自転車で外出。通るべき道は大体分かってる。但し行きの場合には割と寄り道したりなんだりしてゆっくりとだらだら漕いで目的地に向かって、その帰り道は
通るべき道をしっかり通ってビシッ!と決めた状態で体良く帰る」 こうなる。それの実践。体で覚える。とまむさんは「1バイトと2バイトの両輪を程良く併せて回す」
と言う感覚だから。いわば「1+2=3バイト(unicode)的(他言語対応)思考」なんで。「社会≒会社」と言う概念を嫌っているのは以前の日記でも書いた通り。

「他言語対応」と言うのはすなわち「他業種(他人)対応」の感覚とする。けれども他人他人他人他人とそっちの方に行くと都会人間にありがちな
他人の目を気にしすぎるセンス(生まれも育ちも東京都みたいな都会派感覚の女の声優がやたらと自分のファッションについてブログに語っていて声優雑誌の
取材かなんかで都会を離れて撮影しましたとか言うとあぁなんかもう都会モンっつーのは田舎を下に見てる印象って感じですねファッションセンス的な意味で)になる。

過剰な介入はしない。分かったふりもしない。ある種の先鋭的な感覚で目を気にしない態度で頭の中身こそを気にかける。そうした印象。それがunicode的思考。

1バイト思考:これこれこうなるからあれはそうなる、と言う様な、国境を1歩またげばよその国、と言う場合外敵と言う概念が比較的強い為、国家間に代表される様な
取り決め、取り交わし、を行う際に齟齬が無い様にとキッチリキッチリした内容を決めておく必要があるそうした展開を有する日本以外の大陸的国家思考。

2バイト思考:日本の様に海に囲まれて多湿気候にともなう割と開けっ広げ的なおおらかな生育環境に伴う、いわゆる以心伝心的な曖昧さを良しとする島国的国家思考。

この違いを上手く併せて回していく。それがネオ日本人たる俺のやり方。そう言う訳で力の配分の使い方と力の発揮の発端を併せるやり方を実行しながらの帰宅。

2010年08月28日(土)16時09分18秒