「今日はあずあずと一緒に浜松のオートレースのイベントに行って来ました!!二人で合間に楽屋トークもして、楽しかったよ〜♪」
(何が楽しかったのか、が分からない) 「今日は大好きな なっつと浜松オートに来ています 二人で一緒のお仕事って本当にたのしーーい 待ち時間は
二人で楽屋でずーーーーーっとしゃべっています オートって 迫力があって かっこいいなぁ みんな頑張ってぇ」(二人で一緒じゃないと。…1人だと楽しくないのか?)
最低限のツッコミ終了。 これが3次の女の現実だ。こう言う現実があるにも関わらず主に旦那が働いて稼いできた金を嫁が小遣いとか言って渡すこの矛盾。
世の中にあるさまざまな「お金を必要とする商品やサービス」の中で企業が原価にプレミアムを上乗せしまくる商品と言うのは男向けなんかよりも女向けのそれが多数。
「洋服」「小物」「化粧品」。特にこの3つ。…そうした「女の足元が狙われてんぞ?的な企業のベクトル」も同時に省みると如何に3次の女が目の上のたんこぶなのか。
それが実に良く分かる。だから俺は3次の女をバカ扱いした上でまだマシな奴と言う事で「脳味噌の作りの出来不出来」によってマシかどうかを判断する。それだけ。
今回のオートレースグランプリの表彰式で有吉辰也に軽くいじられたその3次元が自分のブログでこう言う文章を書いている。一体何が楽しかったのか。
その文章を見て「××ちゃんがこんな事書いてたわ。俺もオートレース見てみようかな」と思わせるだけのパワーが無い。こんな出力不足で一体どうするんだと。
だから俺は基本3次の女を嫌ってる。ホント、よっぽど生理妊娠出産と言うメカニズムで栄養を取られてその分脳まで行かなくなるんだな。それが実によく分かる。
足りねぇ。全然足りねぇ。「何が」凄かったのか。「どう言う風に」凄かったのか。「どう言う理由で」凄かったと思ったのか。そうした説明の概要が完全に欠けている。
2次元の女が可愛く見えるのは脚本やキャラデザと言った面々が男だから。つまり男の理想像が比較的込められている。これが「作者は女」みたいな事になると
大体「かんなぎ」みたいな騒動が勃発する。「性別」ではなく「脳別」。男と女の違いと言うのは脳の作りの違いにある。そう言う認識で行く方がいい。それが割と正確。
こう言う事を書くと男の方を上に取る男尊女卑の傾向が強く思われてしまうんだがいや俺はそうも思っていないんで。現代社会は如何にして理論的に説明するべきか。
それが重要だと俺は考えているから。要するに2バイト思考を強く有する日本人の大半は以心伝心みたいな形で明確に説明すると言う概念が存在していないんで。
再掲。「1バイト思考:5W1Hに代表される様な話を明確にする思考。1歩跨げばよその国。戦争とか勃発した場合には隣国から兵隊が進入してくる。
そした攻める攻められると言う概念が強い以上他国との他人との取り決めはしっかり誤解の無い様にしなければ自分らが殺されてしまうと言う説明の外国的概念」
再掲。「2バイト思考:以心伝心。言葉が明確にならずに態度とか行動とかで分かってよぉとか思う様な感覚。海に囲まれた日本なんで他国から兵隊が進入しにくい。
とは言え最近は情報と言う兵器を使った時間無制限戦争の真っ只中と言うのが現代社会なんでいとも簡単に兵器が海を超えてやって来ているんだけどな。実は」
この違い。どちらが優秀でどちらが劣ってるとかそう言う事はない。その両方を上手に両輪として回していく多元的(3バイト≒ユニコード)思考。が俺の中心線。
エモーショナルな部分は2バイト思考の方が情緒があって楽しくて、自分が持つ概念と他人が持つ概念はまるで違う、人それぞれに身勝手なバイアスが存在する
その事を認識した上でそのベクトル&バイアスの違いを条件付けによってすり合わせていく行動を行うと言う段階は1バイト思考の方がメインとなる。
そう言うやり方。理論的な説明と言うのは男の脳味噌と女の脳味噌だと女の脳味噌の方が苦手としている。女は感情が強いからな。すぐに感情が表に出る。
だから男は頭がいいとは全く思っていないんで。結局最終的に行き着く所は個人個人の問題でしかない。男にも理論的ではなく頭が悪いと感じる奴は大量に居る。
・おりちゃんがいなかった分、浜松のお仲間達、寂しがってましたよ やっぱりおりちゃんは、浜松が1番かな
例えばこれな?「関係者脳(仲間脳)」を持つ大多数の日本人の悪癖の最たる物。情報発信と言う行為の大半は仲間に向けてではなく仲間以外に向けての物。
そう言う認識。つまりツーカーの関係なら知ってて当然の事も赤の他人なら知らなくて当然なんだからそうした連中にも分かる様なベクトルを適宜織りまぜていく事。
それをしない。それが日本人の大半の頭の悪い頭の使い方であって俺はそうした関係者意識、仲間意識をひどく嫌う。だからネオ日本人とセパレートしている。
例えば「声優の田村ゆかり」で日本人と言うのは肩書きがまず前に出る。俺はそう言う肩書きを嫌う。まずは「個人」で考える。つまり「田村ゆかり(声優)」と考える。
どうして浜松が1番になるんだ?「仲間意識があるから」つまり「浜松以外はお呼びじゃない。浜松以外は消えろ」ぐらいの低能っぷりを示しているに過ぎない。
俺はこの手の頭の悪いコメントには反吐しか出ない。俺の認識は「詩織をイメージガールに起用したのは浜松。だから浜松のやり方を見れば浜松に居るのが
比較的ベターであると考える。1番とか2番とか、要するにベストだのワーストだのと言う考え方ではなくベターかそうでないかと言うやんわりとした感覚を採用する。
浜松に居るのがベターであると思うが1番(ベスト)ではない。船橋には船橋の、伊勢崎には伊勢崎の、川口には川口の面白い所がそれぞれある。
そうした内容を考慮すると「詩織のオートレースとの関わり(歴史)を省みれば浜松でどうのこうのすると言う光景はベターではあるがベストではない」と言う認識なんで。
浜松が1番? 何船橋disってんの?何伊勢崎disってんの?何川口disってんの?頭逝かれてる。頭がおかしい。超ウルトラ排他的。それが浜松クオリティ?か。
詩織が伊勢崎に来た時にとまむさんが持っていた感覚と言うのは「『浜松の』レースヴィーナスとして起用された以上浜松に居ると言うのがベターではある。
但しこの国にオートレース場は浜松1ヶ所だけと言う訳ではなく6場が時には切磋琢磨し時には助け合う。そう言う概念も必要ではある。浜松に居るだけでは
分からない何か。他にも楽しめる事はあるんだよ?と言うその存在をある程度掴んでくれてそれをお土産として浜松に持って帰ってくれれば俺はそれでいい」だから。
別にとまむさんは伊勢崎が1番とか言うつもりはない。所詮は「どこも6分の1」だから。 「6分の1+6分の1+6分の1+6分の1+6分の1+6分の1=1」
こう言う概念。人間のエモーショナル(2バイト)な部分でその「6分の1」の「分子」の数が多少増減する程度。せいぜいサッカーボールの上についた
砂粒程度の増減でしかない。払えば落ちる。場所によって多少は付く量が増える。それぐらいの違いでしかない。明確に「どこどこが1番」とは言い切れない。
それが仲間意識を捨てた説明の仕方。「仲間と言うカテゴライズではなく概念を知らなくて当たり前と言う連中に向けて発信しても違和感が少ない」俺のやり方。