他人は徒党を組んで行動しがち。脳内が「仲間専用」となっている。仲間ではない「他人」に出くわした時どう対処するか。その基準を「仲間内」の場合と同じにする。
それが「日本人の弱点」だ。俺?俺は「仲間として行動した方が自分の得になるのかそれともならないのか」これで「仲間を組む」「仲間を組まない」の基準を決める。
基本、俺の様なマイノリティはハブられる。これが「現実」なので、俺は他人と相容れる事が殆どない。それでいい。マイノリティと言う眼力が現代社会では割と力になる。
つまり「普通の見方ではどうしようもない様な閉塞感か脱出する様な感触」を俺は得ている事がある。…ただ、その感触の手応えが他人に伝わるかどうか。
「相対化」を行い「比較」する事である程度「第三者にも分かる形式」にはしているんだが、それでもまだまだ足りてない上に「限界も見えている」と言う現実を痛感する。
それでも「グループAとグループB」が「グループAに内包された概論」を守る奪う展開…ではなく「グループAとグループBが互いの領土に無い概論Cを第三者的に交換する」
この展開は外せない。プラスを伸ばすのではなくマイナスを塞ぐ事。相対化する事で「互いに違っているそれぞれの欠落」を埋める。欠落の違いは「相対化」で如実化する。
…いずれにしても。相対化を崩そうと言う概念も全くなく、俺は俺でマイノリティと言う概念に誇りを持っているので特別他人にジョイントしようとも過度には思えない。
他人と同一行動を起こせば起こすほど、マイノリティたる自分の脳内が劣化し退化し個性が死ぬ。俺はそれを嫌う。よって自分で決め自分で行動する。だから
「仲間」と言う概念には俺はそぐえない。「他人の脳味噌で考えた事をあたかも自分の脳味噌で考えたかの様にして語る欺瞞」を行うつもりもない。これが現実。以上。