「たかじんのそこまで言って委員会」で、京都産業大学教授の所功さんが、両陛下についてこのようなお話を紹介されましたので、文字起こしをしておきます。
私は今の両陛下が、まさに今回の3月11日の大震災にあたって、最も早く、最も的確に行動されたということを知り、驚きました。その原点は何かというと、
お二人とも、陛下が昭和8年、皇后様が昭和9年のお生まれで、昭和20年の8月15日に日光へ疎開しておられた皇太子様が書かれた作文があります。
どういうことが書いてあるかというと、今度の大戦で、陸・海の軍人もよく戦った、それから国民も一所懸命に戦った、でも敗れた、そこで、この国を本当に
これからどん底から立ち直らせていくのは自分の責任だと、自分がしっかりその困難に耐えて行かねばならんということを、書いておられるんですよ。
当時まだ11歳ですよ。そういうお気持ちが、もうお小さい頃からあられたということ。それから皇后様は、おひとつ下ですけれども、戦時中に差し入れを受けられた
物語を読まれて、そこの中に日本武尊(ヤマトタケル)と弟橘媛(おとたちばなひめ)の物語が出てくると。ご承知の通り、東国へ遠征された時に、相模湾に
入水されて、それで、夫たる日本武尊のために役立とうとされた。そのことを『子供時代の読書の思い出』というお話の中に引かれてですね、愛と犠牲というものが、
二つのものではなくて不可分の一体のものだということを知って、非常な感銘を覚えたということを述べておられますと。そういうご自身のお小さい頃からのご体験とか、
そういうご覚悟というものがあって、実は3月11日にどんなことがあったかと言いますと、その日の2時頃に、皇居の勤労奉仕に行った人々が、実は、御会釈を賜ると
言いますけれども、天皇皇后両陛下が、ご苦労様でしたということで、御言葉があったんですね。直ちにみんながそこで感激してお別れをされたところに震災があったと。
で、びっくりされて、それで、これではさっき会ってきた勤労奉仕の人々どうしてるかということを言われて、直ちに侍従か何かが行きましたら、ま、とりあえず
大丈夫だということになったんですが、もうしばらくしたら東京都内が全然、交通麻痺してる。これじゃ遠くから来てる人は帰れないだろう、ということで、両陛下が
それじゃあ何とか人々を、皇居の中に泊めることはできないかと、いうことを言われて、直ちに検討して、結局、窓明館(そうめいかん)という休憩所があるんですが、
そこに数十名の方が、そこに泊めていただいたんですね。それだけでも異例のことなんですけども、その翌日、また心配をなさいまして、7時半頃に、皇后陛下が
そのみんなの休んでる所へ来られて、それで、ま、お見舞い下さったというようなことがありました。こういうようなことはもう異例中の異例なんですけども、そのあと、
さっきも(VTRなどで話が)出ておりますように、自分で自主停電をされるとか、色々なことありますけど、大事なことは、自分でできることを直ちにやっておられると
いうことですね。そして困難は自ら引き受けるという、そういうお姿というものは、やはりお父様である昭和天皇、お母様である香淳皇后などから受け継がれた、
ま、歴代のそういうご精神の影響もあり、それからご自身のその体験にもありますけれども、そういうものを私、見ましてですね、本当に我々今回、ま、この
関西あたりは直接被災はありませんでしたけれども、あの時に自分にできることをすぐ何かやったかと言いますと、それほどできてないと。しかし陛下は
自分でできることを直ちになさり、そして皇后様も直ちにそれを助けてなさろうとなさったということを、やはりお手本として、我々も少しでも自分にできることを、
しかも短期間でなくて5年、10年かけて、一緒にやっていこうという気持ちを持ちたいものだと、つくづく思っております。(ぼやきくっくり 5/2)