教育論でも書いておくか。「他人の教育内容はほぼ100パーセント間違っている」。…従って「バカしか生まれない」。そうした世界が構築されていく。
基本、俺は「他人は1人の例外もなくバカと扱え」。そう確信している。理由?「教育展開がほぼ100パーセント間違っている。だからゴミ他人が生成されていく」と。
日本人は人見知り。人見知りを脱した相手とだけ集団徒党を構築する。生物学上男の方が女と比べて尊大に「なりやすい」。
尊大に「なった」男は女を下に扱う様になる。「女がそれに従うか、それとも従わないか」。その結果はどうでもいい。「常に男は上位となりたがる」。
そうした男女環境が「当たり前」の様になる。そうした環境に慣れていく。…すると男は傲慢が当たり前になっていき、女は奴隷が当たり前となっていく。
そうするとどうなるか。「男は尊大となり、視野狭窄状態が通常となる。従って『他人に対して攻撃気質』を有する事となり、なおかつ自分の方に非があったとしても
その非をそもそも認識出来ない、何故なら狭い視野の外にあるから。広角レンズでなら見える範囲も、望遠レンズだと見えなくなる。その事と一緒」。
1:携帯電話のキャンペーンで、腐った脳持つディレクターが、もう態度からして腐っているので「あぁ。こいつを反面教師の実験台として使うか」と決定し誘致。
「スマートフォンお探しですかぁ↑?」「アプリとか色々あるみたいですけど入れるのメンドクサイです」「お客さんスマートフォン向いてないんじゃないっすか?www」
面倒と判断する理由は3つある。 「1:無料などと言う概念はこの世にはなく、必ず誰かの財布が痛む。その対象は誰なのかによって展開は大きく変わる。
無料アプリで広告なし:作者の開発環境の構築維持に対する出費、公開に審査があるならその審査費用、そうした諸々の内容は全て作者が負担する。自虐的作者。
無料アプリで広告あり:広告の大半は「利用者」とはマッチングしない。「どうしてこんなクソくだらない広告がこの世にあるんだ」と言う他にないゴミ広告であふれ返る。
有料アプリで広告なし:金を払ってでも使いたいとするソフトはこの世には殆ど無い。何故なら有料課金≒団体であり、団体と言う存在は視野狭窄の最たる物だから。
従って「どの選択肢も中長期的には幸せにはならない」。 …唯一の解は「間接的に有料アプリ」 これしかない。…つまりどう言う事か。
間接アプリで広告なし:中小企業から大企業から「広告宣伝費」などの名目によって、アプリ製作企業に依頼を行ってその会社(組織)独自のアプリを作る。
まずは使って貰う事が必要なので有料ではやりづらい。従って「テレビコマーシャル」、「新聞広告」と同じ様に「その出費はその後収益へと結びつきやすくする為」
とした内容で以ての展開を構築していく為にも無料になりやすい。「テレビコマーシャル見ただろ!?金払え!」…スポンサーがそんな事言うか?
…だとしたら。「ゆるゆりの合間のコマーシャルを見てポニーキャニオンが金払え!とか言い出したら」。…「じゃあ見ねぇよ」となるのが普通だろ?そう言う事。
…従って「無料で展開しやすく、なおかつ顧客から頂いたお金の有効活用として、自社に誘導する為の物なので、使いにくいなんて言うのは言語道断」とする
「間接的に有料アプリ → 他の事業で収益を挙げ、その収益の一部を更なる収益をもたらす為の物として使う」とした概念で製作されたアプリ。
そう言うアプリは最初からインストールされている事が大半。「ダウンロードしてインストールさせる事は手間である」と言う事を「分かっている」から。
面倒と判断する理由は3つある。 「2:Googleは外国企業。ベータ版でも積極的に公開する様なバージョンアップ上等企業。その体質は日本企業とは正反対」。
…従って「最新のAndroidに対応しました!」と言った所でAndroidの方がバージョンアップしてしまってはその対応しました!とする台詞も結果的には嘘になる。
日本企業とは違って「年に2回のバージョンアップ」をノルマにしてるのか?Googleは。と言わんばかりの「スピーディー」な様相を見せている。
果たしてアプリの製作者が、そうしたバージョンアップに迅速に対応してくれるのか?「日本人のスピードの遅さを見る限り、それは殆ど無理難題」となる。
面倒と判断する理由は3つある。 「3:○○ってアプリを使って無い奴は情弱wwwと決めつけるそうした風潮には付いていけないし付いていかない」。
人が何を使おうが基本的には自由。よっぽど劣悪なソフト以外は基本的には自由。…そうやって「情弱と決めつける態度」は、まさに集団徒党の中に陥り
いつのまにやら構築されて行ってしまった「尊大なる傲慢な態度」以外の何物でもないな。「情弱判定思考」とする意識は「腐った男」の最たる物。
・「お客さんスマートフォン向いてないんじゃないっすか?www」…これが「集団徒党が構築されると生物学上男の方が女と比べて尊大になりやすい」その証拠。
2:俺が自転車を漕いでいる。その後ろに自転車。…わざとコースを変えて自転車を走らせてみた。「あぶねぇじゃねぇか!」「…危ないのはお前だ、カス」。
危ないと判断する理由は3つある。 「1:並列で走って歩道を塞ぐ。お前ら2匹のその態度。歩道を塞いでいる方がよっぽど危険だ。クソマヌケ」。
危ないと判断する理由は3つある。 「2:片方が無灯火運転。こんな暗い道で無灯火をやっての自分アピールが足りてない方がよっぽど危険だ。クソマヌケ」。
危ないと判断する理由は3つある。 「3:近くに来たのに鈴も鳴らさない。そうやっての自分アピールが足りてない方がよっぽど危険だ。クソマヌケ」。
俺は後ろにチャリが付いてた事は把握済み。したがって「わざと」やってみた。…なるほど、案の定「俺の是とする教育論とは対局的なる悪しき教育論」を受けた
ゴミ脳しか抱いていない自己尊大気質を発揮してきたか。やっぱりな。…最近は「やっぱりな」と口にする事があまりにも多すぎる。それが俺の近況。
・「並列無灯火で鈴も鳴らさない?自分の非なんか認めなねぇ…これが「集団徒党が構築されると生物学上男の方が女と比べて尊大になりやすい」その証拠。
まとめると。
・「お客さんスマートフォン向いてないんじゃないっすか?www」…これが「集団徒党が構築されると生物学上男の方が女と比べて尊大になりやすい」その証拠。
・「並列無灯火で鈴も鳴らさない?自分の非なんか認めねぇ。」…これが「集団徒党が構築されると生物学上男の方が女と比べて尊大になりやすい」その証拠。
日本人は人見知り。知り合いとだけ集団を作る。生物学上男の方が女と比べて尊大になりやすい。すると男は視野狭窄となる。
「視野狭窄の男に命令される」と女は非論理的な生物と成り下がってしまい、なおかつ男と同様に視野狭窄の状態へと陥ってしまう。
すると「比べる」と言う概念は完全に消失されてしまい、結果的には「ゴミ他人」へと変貌を遂げる。
証拠を先に提出し、そうなるプロセスを後に提出する。これで分かりやすい話となる。
従って、俺は最初に論じた様に
「他人はゴミ。基本的には『ゴミ他人』。全ての他人は1人の例外もなくゴミとして扱い、その中で、視野狭窄ではない
心情と言う物を掴んでいる、そうした有用性が認められる他人のみを『ゴミ』と言う形容詞から外して扱え」。 …それが絶対の教育的正義指導となる。
…何故、こうも「他人と」異なるのか。理由は2つ。 「1:素質、生まれつき、天才児」、「2:教育的観点の有用性がどこにあるのか?と言った見方の違い」。
「和を以て貴しと為す(聖徳太子)」 …俺はこれを否定する。「和を意識するな。和は基本ゴミ。発つ鳥あとを濁さず。いちいち『和』とした感情など不要だ」。
俺の中心行動は2つ。 「1:思考を巡らせる。その事で脳内が拡張されていく。血流と拡張と」。 「2:モデル歩きをしろ。いいケツに化けて身体を鍛えろ」。
思考を巡らせる事で脳内が拡張されより良い方式よりよい行動が生まれる源泉となる。
モデル歩きに代表される体幹の鍛練で、肉体はより強靱な方向へと生まれ変わっていき、また運動による快眠効果も発生する事となる。
その事によって生じた効能によって先鋭的なプロダクトを整える。それが終わったら後は野となれ山となれ。他人と意見を交わしたがるのが集団徒党の現実。
そんな時間は無駄でしかない。「おしゃべりの後に発生する感情は空虚」。「おしゃべりなんかしない方がいい。そんな時間があるなら真剣な思考を巡らせろ」。
プロダクトが整えられたなら、あとは自分が関与する事もなし。として「捨てる」様相で以てさっさと次のプロダクトへと向かってしまえ。立ち止まるな。時間の無駄。
俺の中心行動によって「他人軽視の集団軽視。ついでに書けば評判も軽視せよ」とする3つの軽視で以て「逆に本質へと突き進む」そのブーストを掛けていく。
・集団の否定。脳の拡張とする鍛練の肯定。…これが「2:教育的観点の有用性がどこにあるのか?と言った見方の違い」その論拠。
俺の中心感覚は2つ。 割と他人を無視する傾向が非常に強い。具体的には「小学校の頃の図工の時間にホワイトボードを作りましょう♪と教師が言う。
木の板の上にそのままホワイトボードのシールを張り付けて『出来ました』と提出しようとして教師に拒否られた。それが俺の過去」。
…あぁ。「糸鋸を使って木の板を切り落として形を整え、自分の好きな形のホワイトボードを作りましょう♪」と言う事か。切り落としたら面積が狭くなる。
ホワイトボードなんだから可能な限り書ける面積は広い方が使いやすい。切り落とした分の面積が勿体ない。だからこのままでいい。小学校低学年でこれだ。
・元来よりの素質。ある種の「天災」児状態。…これが「1:素質、生まれつき、天才児」その論拠。
まとめると。
・集団の否定。脳の拡張とする鍛練の肯定。…これが「2:教育的観点の有用性がどこにあるのか?と言った見方の違い」その論拠。
・元来よりの素質。ある種の「天災」児状態。…これが「1:素質、生まれつき、天才児」その論拠。
日本人は人見知り。俺は人見知り以前の問題。日本人は知り合いとだけ集団を作る。俺は集団を作ると言う事をも嫌悪する。たまたまその場にその時間。
その環境下においてたまたま集合が掛かった程度の事としか見ない。日本人は生物学上男の方が女と比べて尊大になりやすい。
俺は生物学上男の方が女と比べて尊大になりやすい事を把握しているので、自分の中ではなく自分の外にもう1人の自分が居るとした様相で以て
2人の自分による視点の違いによって視野狭窄へと陥らない様にするんだ!と言う強い意識で以て可能な限り尊大にならない客観的な行動をする様にしている。
日本人の男は視野狭窄となる。俺は視野狭窄になりたくないと思っている。「視野狭窄の男に命令される」と女は非論理的な生物と成り下がってしまう。
俺は命令すると言う行為は嫌いではあるが女があまりにも使えない生き物状態だった場合には論理的な内容で以て「こうするといいよ」的な
アドバイスメントに留めておく事にしている。日本人は視野狭窄と上意下達によって「比べる」と言う概念を完全に消失する。俺は消失しない様にする。
結果的に他人は「ゴミ他人」へと変貌を遂げる。…殺してもいいんだが「ゴミを殺す時間が勿体ない」。ゴミを相手する時間もない。
比較的に自分は「ネオ日本人」へと変貌を遂げる。…殺されるとしたら「腐ったゴミ他人だらけの世の中」に殺されるんだろうな。とした印象で以て。
人見知り社会の日本で和だとか言い出す様な展開はこうやってゴミしか生み出さない。「他人の教育内容はほぼ100パーセント間違っている」。その論拠。