2011年12月24日(土)駿馬

橋下が教育基本法案を変えようとしている、だっけ?「無理」。何が無理なのか。「集団教育とした概念そのものが害虫でしかなくそこにメスを入れていない」。
つまり「教育の方式の根幹がなんら変わっていない以上上っ面だけを取り替えた所でそうした行為に意味は無い。なんて言うか『愚者同士の喧嘩乙』となる」。

1:机並べて先生から生徒。とするやり方自体がもう通用しない。如何にして自分で収集させていくか。貪欲に?いいや、殺伐に。 
2:机並べて先生から生徒。とするやり方自体がもう通用しない。みんなで同じ内容を同じタイミングで〜とか笑わせる。バカに合わせれば全体の質が抑制される。
3:机並べて先生から生徒。とするやり方自体がもう通用しない。そもそもの教育内容が「実は全く役に立っていない」。教育内容の刷新に大人が付いていけない。
4:机並べて先生から生徒。とするやり方自体がもう通用しない。子供と大人の習性には違いがある。子供の習性に適合した内容を施すと言う考え方が無い。
5:大阪市だけが頑張った所で所詮は地方の一自治体。「全国区」にならないと「日本人(笑)は大衆迎合性を求めるだけの愚民」でしかないのでスポイルされる。

…従って「教育(笑)」と軽く罵った上で「ねぇわ」と題して愚者教師からわが子を突き放す。簡単に書けば「学校はバカの集まりでしかないので
大衆迎合性の適用を求める理由以外の理由でわが子を学校に通わせようとは全く思わない」。

大衆迎合性の適用 → 日本人の最大の特徴は「みんなやってるから」。その言葉に代表される「烏合の集を組みたがり、なおかつ他人との集の違いを意識する」。
それが適用されないと日本人の血は不満を覚える。それが民族学。それ以外、つまり「この教師に教えてもらう事、この学校に通わせる事、赤の他人が作った
ダメ教育&ダメ習性しか教わっていないんだろうなぁ的なDQN他人のDQNガキと机を並べて(笑)勉強させる事」とした大衆迎合性以外の状態にメリットは皆無。

現代社会は「勉強をする事なんかよりも勉強をする事とした内容を目的として集合を掛ける事また集合が掛かっている状態を閲覧して満足する事」の方が優先。
つまり手段と目的をはき違えている愚者が大量に集まっていると言う事が教師の側も生徒の側も含めて別個性の別集合体となっているザマも含めての死に体状態。

俺はそう判断する。「学校に与えられた教育内容なんかよりも自ら探索を行って血肉とした自己教育の展開が正直何兆倍も役に立っている」と。ソースは俺。以上。

2011年12月24日(土)11時25分30秒