東京大賞典。今年は地方所属馬の出番がまるで無かったな。但し落胆する事はあまり無い。地方競馬の存在意義とは最強馬を育て上げる事以外にもあるが故。
1:畜産。弱いと判定された馬は捨てられてしまうのか?競走馬の「再就職」。並びに競馬を開催する事によって発生する地域経済の活性化。
2:観戦。中央競馬だけでは広くあまねく日本の国土に競馬と言う物を生で流布する事は出来ない。「やはり競馬は生で見てこそ」。そうした舞台装置としての価値。
3:資源。観光としての当該地域以外の貨幣を呼び込む広告塔。基幹産業としての地域経済を安定して回していく為の基礎。
俺の中では上記3つの存在意義の方が優先順位としては高く、必ずしも地方競馬から強い馬が出てくる事は必須ではないと考えている。
…但し。「落胆する事はあまり無い」と「あまり」と形容詞を付けた事にも意味はある。「あまりにも弱い馬しか出て来ない事が続くと競馬の熱は冷めてしまう」。
…俺はその事を危惧している。物が売れる売れないと言った隆盛の存在を決定づける要素は「熱」にある。俺はそう思っている。
簡単に書けば「ブーム」。難しく書けば「それを見て何が面白いのか。それのどこが面白いのか。一体どんな風に面白いのか?とした語りたがりの語り部の存在」。
強い馬が地方から出てくれば競馬熱は高まってくる。なんとか競馬に誰それって言う強い馬が居るらしいぞ!例えばこうした発言による「熱の伝染」。そうした展開。
如何にして「何が面白いのか。どこが面白いのか。これから始まる大レース、一体どこの辺りに注目の目を向けるべきなのか?」とした概念を語る語り部が
広くあまねくそうした展開の熱さを語り、そうした熱の共有を行い、共有された視線がレースに挑む各馬へと向けられていく環境を構築していくか。
地方競馬から強い馬が出て来ないと幾ら地方競馬の大レースを勝った所で所詮は地方で中央に行けば勝てないよなぁ〜とした諦めと言う名の心理的概念が
顧客の中に発生し、競馬に対する「熱」を帯びていくと言った行為に水を差してしまう。そうなってしまうと競馬はまるで盛り上がらなくなり金銭も投入されず
畜産としても回らなくなっていくし資源としても存在価値を失って行ってしまう。「強い馬が全く出ないのは『人間心理上』問題である」。俺はそう考えている。
従って「頻繁にでも無くていいから強い馬が地方競馬から出てくるべきである(人間心理の熱と言う概念の都合上)」。
俺の結論はそうなっている。フリオーソが出て来なかった事がな。それと「フリオーソの次」が出て来ない事もまた熱の低下に関与している。
一応はクラーベセクレタが引っ張っていくのか?但し牝馬。競馬とは血のスポーツと良く言われている。要するに産駒。「父から子へ」。と言った「概念」。
クラーベセクレタは牝馬。従ってサイアーラインと言う概念からは少し外れる事になる。「フリオーソの次の牡馬」。が出て来ない事には熱がしぼんでいく。
地方競馬の存在意義とは地域経済の発展と地域の安定した雇用。それが第一定義ではあるが「強い馬が出て来ないと競馬熱は上がって来ない」。
従って「そろそろ競馬熱を高めて行ける様な強い馬の出現を求める事にする」。人間心理的な意味で。それが俺の総論となる。以上。