バス、と云うほど低く無く、テノオル、と云うほど高くは無い、
そんなこゑの持ち主の男が、静かに唄を謳ってゐた。
何処かで聞いた事の有る、懐かしい旋律を、記憶任せに謳ってゐる。
そのやうな感じがした。
名前や歌詞までは思い出せないが確かに私はその唄を知ってゐる、さう思った。
真っ黒な式服を身に纏い、椅子へと腰掛けて謳う男。
休日の公園には少々不似合いな様子であった。
天気は上々。
しかし何故か、公園には私と男、それに、キャッチボオルをする親子しか居ない。
晴れ上がった空では、雲が様々に姿を変え、不可思議な形を作り上げては崩れていく。
風は冬の厳しさを持ち合わせてはゐたものの、
二、三日前のものとは比べ物にならぬほどに暖かである。
穏やかな休日に現れたこの男、一体何者なのであろうか。
しかし、この男の奏でる緩やかな旋律は、この上なく私を癒してくれた。
高く、時には大変低く、総てを忘れてしまう程に優しい「うたごゑ」が、私へと浸透して行く。
入浴時に湯から身体へと浸透して行く熱のごとく、私の身体にはこゑが伝わってゆく。
身体が、じんわりとふやけてゐくのが、はっきりとわかった。
何故だか、咽喉が熱くなった。
そして、突然、私は男の声に共鳴する様に、男に合わせて謳いだしてゐた。
その曲を、私はほとんど知らなかった筈であるのに、
如何してだろう、まるで昔からこの唄を謳っていたかの様に、私の咽喉からは旋律が溢れ出て来た。
重ね合わされた曲は、先程より一層美しいものであった。
狂おしいほどに完成された旋律が、更に私を包み込んだ。
曲が終ると、不意に男は私の方を向いた。
笑顔である。
私も、満面の笑顔を返し、男にこう質問した。
「この曲は何という曲でしたか。」
男は、立ち上がり少し眩しそうに空を見上げた。
「貴女は、御存知の筈ですよ。」
「…思い出せないのです。何処で聞いた曲かさえ、おぼろげで。」
男は自分の横に置いてゐた、黒い鞄の埃を払い落とし、
鞄の上に置かれてゐた帽子をそっと自分の頭の上へ乗せた。
「貴女は、ずっとずっと昔にこの曲を聴いていた筈です。」
私は、結局曲の事は、聞き出す事は出来なかった。
それから二、三日後、私はこの曲の事をようやく知る事が出来た。
それは、母の父が好きだった曲で、
母は私を身篭ってゐた時に、よくその曲を聴いてゐたのだと云う。
母は笑って、よく覚えてゐたものね、と云った。
私も、何故だか可笑しくて、母と一緒にくすくすと笑った。