虚言癖の








彼女は、例えるならばそう、水槽の中を泳ぐ一匹の青い魚のようであった。













彼女と出会ったのは、霧の深い六月の雨の日だった。
僕は、一枚のメモ用紙に記された住所を頼りに彼女の部屋を訪れた。

彼女の部屋は、
住宅街のひっそりとした裏路地の中に在る古いアパートメントの一室らしい。
101号室。
如何やら、彼女の部屋はドアの開け放たれた角部屋の様だ。

「こんにちは」

部屋を覗き込みそう声を掛けて部屋のドアを叩くと、
部屋の奥の方から

「どうぞ、入って頂戴」

と擦れた様な甘い声が返って来た。

「御邪魔します」

僕は自分の靴を玄関にきちんと揃えて上がり、きょろきょろと彼女の姿を探した。

朝から降り続いた雨の所為で、
彼女の部屋の中はまるで大きな水槽の様に水気を含んだ空気で覆われて居た。

「妾は此処よ」

そう、彼女の声がした。
聞こえた声の方向へと目をやると、
ベランダの脇に腰掛けた着物姿の女性を見付ける事が出来た。

彼女は白地に青の縦縞の入った薄手の着物をとてもやわらかな風に着こなしていた。
梅雨の湿っぽさも気にならぬ様な、涼しいシルエットをしている。

ベランダの引き窓に腰掛けて、外へと脚を放り出して、
陳腐な、其れで居て何とも鮮やかなピンクのしゃぼん液の容器を握り締め
彼女はぷうとひと吹きシャボン玉を飛ばした。

其の様はまるで、そう一匹の魚と云う表現が似合うような様子で。

水槽に浮かぶ、一匹の青い青い魚。

なんとはなしに、僕の頭の中にそんな姿が思い浮かんだ。

「ところで貴方、誰ぁれ?」

にや、と彼女はまるで悪戯をした子供の様な笑いを投げ掛けてきた。

「―あ、ぼ、僕は、あの菅本先生に云われて…」

「嗚呼、センセの処の学生さんね」

「は、はい、足羽と申します。
あの、先生からこちらに忘物をしたからとってきて欲しいと云われて来たのですが」

「アスワ、さんね。ええ、センセこの間お出でになった時に此れお忘れになられてたわ。
センセったらこの間はお仕事の合間に此処に来たのね。…いけない人。」

其の発言は彼女と教授が何やら妙に親密な関係であるかのように聞こえた。

僕は教授に此処へ預けてある書類を受け取ってくるように言い付かっては来たが、
彼女が教授のなんなのかとそういった込み入った事までは聞いてはいなかった。

だが例えば彼女が教授の愛人であったとしても、
僕に其の事実を問い質す権限は持ち合わせてはいない。
だから僕は、何もいわずに彼女の話を聞き流す振りをした。

「すこしお待ちになって」

彼女はそう云ってベランダから腰を上げて小さな鏡台の引き出しを開けた。
そしてその引き出しから少し汚れた一通の封筒を取り出し、私の手へと渡した。

「此れでしょう?」

「嗚呼、此れです。…有難う御座いました。では僕は此れで…」

封筒の中身を確認して礼を云い、頭を下げて部屋を出ようとすると、
背を向けた方向からまた女が声を掛けてきた。

「…もうお帰りになるの?」

甘い、根に残るような癖のある声でそう云った。

「もう少しゆっくりしていらしたら良いのに」

振り向くと、
彼女は首を少し斜めに倒して背中まで伸びた髪を肩へと流し大きな黒い目で僕の方を見ていた。

「…でも、此れを早く教授にお渡しせねばいけませんので。」

刹那、胸が、ときりと鳴った。
彼女の目に一瞬心を取られそうになったのだ。
しかし、僕は慌てて彼女から眼を逸らし、そう言葉を返した。

これ以上彼女の眼を見つめていてはいけない、
これ以上見つめてしまったら彼女の其の眼に引き込まれてしまいそうだと、
僕は不意にそう感じた。



「…いつもみたいに、遊んでは下さらないのね」


彼女は眼を逸らした僕にぽつ、とそう呟いた。

「え」

「いつもはもっとたくさんあそんでくださるのに」


彼女ははっきりとそう云った。
『いつも』遊んでくださるのに、と。


「…僕は前に貴女とお逢いした事があったでしょうか?」


そんな記憶は無い。
しかし、先程名前を告げて初対面の挨拶をしたばかりではないか。
一度でも何処かしらで顔を合わせていたのならば、あの時に気が付くのが普通であろう。

彼女はにこりと笑み、云った。


「何をいってらっしゃるの?嗚呼そうだわ、今日は双六でもしましょうか?お好きでしょう?」


些か子供のような笑顔を見せて、彼女は僕の背中へとぺたりと張り付いた。
そして細い、柔な腕をするりと僕の身体へと絡みつかせて、そっと耳元へとくちびるを寄せた。


「それとも、いつものように、こうしていましょうか?」

甘い声の溶け込んだ吐息が背筋を撫でた。
途端、全身にざっと鳥肌が立った。


「…っや、やめてください!」

僕は彼女を振り払った。
顔は驚くほど赤くなっていて、僕は恥ずかしくてその顔を掌で抑えて隠した。

そして鞄と封筒を掴み、無我夢中で彼女の部屋を飛び出した。



「っは、はあっはあっ…」

駆け出した足は止まらなかった。
一気に今日来た道を遡って走った。

駅の姿が見えてきて、僕はやっと足を止めた。
足を止めても、息は途切れなく荒く吐き出された。
僕は呼吸を整えながら、ゆっくりと首筋に手を当てた。

まだ、彼女のあの甘い吐息が首筋に纏わりついている様な気がしたからだった。

あの時、彼女に耳元で囁かれた声。
僕はあの声に鳥肌を立てた。
しかしその鳥肌は嫌悪の念で表れた物ではなかった。
そう、あれは、昂揚の為に表われたものであったのだ。

僕は彼女の声に欲情したのだ。
あの甘い掠れた吐息雑じりの声に。







研究室のドアを開けると、教授が待ちわびた様に僕を出迎えた。

「やあ、足羽君、お願いした書類貰ってきてくれたかね?」

僕は鞄に納めていた封筒を取り出し教授に手渡した。

「そう、これだよ。有難う、助かったよ」

教授は封筒から幾枚かの書類を取り出して目を通し始めた。
僕は用意されてた温い珈琲を口へと運び、一息置いて教授に声を掛けた。

「先生」

「なんだね」

「失礼かとは存じますが…、…今日行ったお宅の女性について御伺いしても宜しいですか」

「ああ、彼女かね。…ああ、君は彼女に逢うのは初めてか」

教授は目を通していた書類から少し目を放した。

「ははは、驚いただろう?彼女少し変わっているからね」

「…教授とはどういったお知り合いなのですか」

「どういったって…其れは君簡単だよ、僕と彼女は単に医者と患者の関係というやつだよ。
なんだい、彼女を僕の愛人だとでも思ったのかね。」

「…、し、失礼しました。
…あの、あの女性が先生と自分は何か親密な関係であるような話し方をしていて…それで、つい」

慌ててそう返事を返すと、教授は突然大きな声で笑い出した。
そして一言云った。

「…君も駄目だったかね」

「…何がですか?」

「いや、…ああそうだ、此れを見てみたまえ。」

教授は僕があの部屋から預かってきた書類を僕に渡し、
そして笑いながらこう云った。

「…彼女はね、空想虚言症なんだよ。」

僕は一瞬目を大きく見開いて教授の顔を見た。
そして教授に渡された書類へと目をやった。

彼女から預かった書類、其れは数枚のカルテだった。

「僕は彼女が少女だった頃からの付き合いのなのだがね、…彼女はもう其の頃からこの病に取り付かれていた」

教授は手に持ったペンをくるくると器用に廻しながら僕にそう告げた。

「空想虚言症…?」

「そうだ。しかしこの病名も彼女の本当の病の名前には当てはまらない。
処々この病気と似通ったところがあるから一旦この病名を当てはめておいただけなのだよ。
自分を守る為に嘘を吐く。そして其の嘘を守る為にまた嘘を吐く。
嘘が嘘を呼び、其のうち意識せず嘘を吐くようになる。
嘘が彼女の本当になっていく。
嘘を吐かないと生きていられない、其れが彼女の今の状況だ。
だから僕は彼女に空想虚言症という病名を与えた。
だが彼女は空想虚言症とも違う別の症状も持っているんだ。
…彼女の病気に正式に名前を付けるとしたら…そうだね、水槽病、とでも名付けるだろうか。」

「水槽…とは?」

「彼女はね、あの部屋から出る事が出来ないんだ。あの嘘と夢で満たされた水槽の中からね。
彼女は、部屋から出ると呼吸が止まってしまうんだ。水を奪われた魚の様に。」

嘘と夢の水で満たされた水槽。
そして、その中を泳ぐ一匹の魚。

「どうして、僕をあの部屋に行かせたんですか?」

「彼女はね、あの水槽の中で、自分を本当の海に還してくれる人を待っているんだ。
嘘の水槽から彼女を連れ出してくれる誰かをね。
僕は彼女を海に還してやる事は出来なかった。
…君ならもしかして、と思ったんだけれど、やはり駄目だったようだね。」

教授は少し寂しそうに笑った。

「あの魚は、もう海には帰れないのかもしれないね。
水槽という自分だけを守ってくれる優しい殻から出る事は、本当に難しい事なんだね」







其の夜、僕は夢を見た。

一匹の真っ青な魚が、海原へと還ってゆく夢を。

魚は水槽に居た時よりももっと多くの光を浴びて、其の鱗はきらきらと眩しい程に輝いていた。