籠鳥の夢












1.

彼女の居た場所。

其処は、乾いた匂いのする冷たい病室でありました。





表は冷たい冬の雨が降っていました。

雪にもなれず、不十分な冷たさを帯びた冬の長雨は

僕の身体を刺す様に朝からずっと降り続けていました。



其の日僕は何時も通り呼吸器科で喘息の薬を処方して貰い、

拗らせた風邪の為に出る咳を一生懸命に抑えながら病室の前を歩いていました。



僕は幼い頃から喘息という呼吸器病に侵されていました。

子供の頃から酷かった喘息はもう慣れたもので、

少しくらいの発作ならば自分の足で病院へ向かう事も出来たのです。



丘の上にある古く大きな病院。

僕はその病院の呼吸器科にお世話になっていました。

掛かり付けの先生は少し歳を召されてはいましたがとても良い人で、

小さな頃から本当に親切にして貰って僕は先生の事をとても信頼していました。



そして其の日もその先生に薬を処方して貰い、

少しばかり先生と世間話をして時計が丁度昼の十二時を指す頃に先生の部屋を後にしました。



朝からひゅうひゅうと音を立てていた咽喉も、

其の頃には大分具合が良くなって来ていました。



そして僕は少し調子の良くなったのを良い事に、久しぶりに病院の屋上へと向かいました。

病院の屋上には沢山花が咲いていましたので、僕は其れを見に行きたかったのです。



屋上への階段に行くには呼吸器科の入院患者の病室の前を通る必要がありました。

ですから僕は其の日、彼女の病室の前を通りかかった訳です。



病室の前の廊下はとても静かでした。

僕は底に木をあてて作られた革靴を履いていましたので、靴音は静かな廊下に驚くほど大きく響きました。

余りに響くので僕はなるべく音を立てぬように、ゆっくりと廊下を歩いていきました。





かしゃーん。





突然廊下中にけたたましい音が響き渡りました。

其の音は何か硝子で拵えたものが割れたような、そんな音に聞こえました。

僕は驚いてその音のした方向を見ますと、丁度一〇三号室の入り口から看護婦が慌てて出てくるのが見えました。

そしてその看護婦はばたばたと足音を立てて僕を横切って走って行ってしまいました。



僕は如何したのだろうと興味本位にその病室の前へと歩いていきました。

病室の入り口には中から流れてきた赤い水がつうと伝ってきていました。

僕は、一瞬、その水の赤さにどきりとし、驚いて病室の中を見ました。



病室には腕を赤く染めた少女が、ぼんやりと自分の腕を見ているのが伺えました。

少女の腕の傷口からは止まる様子も無くこんこんと真赤な血液が流れ出ていました。

傷はまるで何か鋭利な物ですっと線を引いたような真っ直ぐな傷口をしていました。

血液は腕から流れ落ち、病室に広がった透明な水をあっと云う間に赤く染め上げていきました。



病室の床は数輪の花と、元は多分花瓶であっただろうという硝子の破片が飛び散って、

赤い水に浸ってきらきらと怪しい迄に光を放っていました。



ばたばたとまた廊下を走る音が聞こえました。

先程駈けて行った看護婦が包帯を持って病室へと入っていきました。



僕は其の様子を何をするでも無く只々ぼんやりと見つめていました。



僕はその時の事を殆ど覚えては居ませんでした。

記憶に残っていたのはそう、少女の白い腕に伝う赤い血の色と、看護婦の口にしたたった一つの名前だけでした。





「ススギ」





其れが彼女の苗字であるのか名前であるのか、

そして一体どんな字で書くのか等僕にはさっぱり分かりませんでした。

ですが、その涼しげで鮮麗としたその三文字の名前は僕の脳裏にはっきりと焼き付けられました。











2.

其の日も、外は雨が降っていました。



僕はごほごほと咳き込んでいました。

或の日以来、あまり僕の咽喉の調子は良くなく一週間前に先生から貰った薬は疾うに無くなっていました。

僕はあまり具合の良くない身体を引き摺り、また丘の病院へと向かいました。



先生に咽喉の具合が良くならないのを告げると、

先生は今日は別の薬も一緒に出しておきましょうとカルテに見慣れぬ薬の名前を書きました。

薬局で薬を貰い、早くと家へ帰ろうと玄関で傘を広げていると見たことの或る顔をした女性と擦れ違いました。

彼女は、一週間前あの部屋で見た看護婦の人でした。

僕が彼女の顔を不思議な顔で見ると、彼女もふっと不思議そうな表情を見せました。

そして、「あら、貴方」と一声、声を上げました。



「貴方、この間ススギちゃんの部屋の前に居た子でしょう?」



ススギ。

彼女は聞き覚えの或る名前を口にしました。



「……彼女、ススギという名前なんですか?」



「あ、ええ、そう。雪と書いてススギと読むのよ。叶野雪(かのうすすぎ)ちゃん。」



「叶野……雪。」



「貴方雪ちゃんのお友達じゃあないの?」



「……いえ、全然」



「あら、同じ歳位だからお友達だと思っていたわ。

久しぶりにお友達が来てくれたのかと喜んでいたのだけど、そう、違うの。」



「……お友達はあまり彼女に逢いに来ないのですか?」



「……そうね。あの子、小さな時から此処に居るからあまり友達が居ないみたいなの。」



彼女はそう淋しそうに僕に笑いかけました。



「そうだわ。良ければ今度来る時にでも雪ちゃんに逢いに来て頂戴な。」



「僕が、ですか」



「ええ、そう。…駄目かしら。」



「いえ、駄目だという事は無いですが…」



「じゃあ是非いらして。雪ちゃんも喜ぶと思うのよ」



「……」



何と無く断る事が出来ず、僕は彼女に逢いに行く事を了解してしまいました。

ですが、僕は何故か少し彼女に逢うという事に楽しげな期待を抱きました。



叶野雪。

その冷たくも儚いようなその名前に、僕は少なからず胸の鼓動を感じたのです。







そして雨は其の晩も、止む事を知らずに降り続けました。











3.

雨は雪になる事を知らぬかの如く、降り続けました。



或の日病院へ行って以来、

僕はぼんやりと窓の外を眺める時間が長くなりました。



或の日から、雨は殆ど毎日降り続けていました。

稀に雨が上がり雲の切れ間から太陽が片目を覗かせる日もありましたが、

大体の日は霧の様に薄い雨がどよりと薄曇った空から降っていました。



毎日傘を差して外出するのが億劫なので、

僕は一週間もの間学校へも赴かずに部屋でぼんやりと過ごしていました。



喘息の具合も大分良くなって来ていました。

止まらなかった咳も止まり、病院へ行く理由もありませんでした。





「ススギ」





相変わらず僕の頭の中にはその三文字が熱烈な印象を残して存在していました。



部屋に広がる赤い水と血の伝うあの、白い腕が。

ほかの事は何も考えられぬほどに僕の脳裏へと焼きついていたのでした。



僕はベッドに寝転んで天井を見つめました。



天井は何の染みも無く真っ白い色をしていました。

僕は何をするでもなく、只天井を見詰めていました。



暫く黙ったまま天井を見詰めていると、不意に白い天井に何かが映りました。



其れは、何処からとも無く、じわ、と染み出してきました。



赤い、染みが。

天井へと染み出していきました。



僕は驚きました。

急いで身体を起こし、目を何度か擦りました。

そして、もう一度天井に目を遣りました。



天井は、真っ白のままでした。

錯覚、だったのです。



僕はもう一度目を擦り、

そして徐に側に掛けてあったコート取り部屋を出ました。



手には何も持っていませんでした。



脱ぎ捨てた靴を突っ掛けて、

まだ乾いていない傘を開きました。



そして、僕は走り出しました。

目的地は一つ、あの病院以外有り得ませんでした。





ばたん。





僕は驚くほど乱暴に其の白いドアを開けました。

そして、その開け放たれたドアの向こうには其の人が居ました。



少女はにこ、と僕に笑いかけました。



「こんにちは」



黒髪の少女は、消え行くような小さい美しい声で一言、そう云いました。







雨は、気もつかぬうちに霙へと変わっていました。













4.

霙はぱらぱらと、降ってきては砕けて逝きました。







少女の目は、黒目がちで大きなものでした。

睫毛が長いのか、僕には其れはとても大きく見えました。



少女はその大きな瞳でじっと此方を見ていました。



「あ」



僕の口から間の抜けた声が出ました。

そして、僕はその途端に急に今までの事が恥ずかしくなってきました。



知らない女性の病室を乱暴に開けて入る等、どう考えても失礼に決まっているからです。



僕の顔は真赤になりました。



しかし少女は表情一つ変えずに此方を見つめ続けていました。

そして、また一言言葉を漏らしました。



「…こんにちは。貴方は、わたしの御友達でしょう?」



にこり、と少女は最初に見せた微笑を僕の方に向けました。



「…ぼくは」



そう云いかけたところへ、がちゃり、と後ろから扉の開く音がしました。



「雪ちゃん、…あら?」



扉を開けて入ってきたのは以前会った看護婦でした。

看護婦は、僕を見てくすくすと笑いました。



「あらあら、今日は御友達が来ていたのね。」



「ええ。」



雪と呼ばれた少女はまた、にこりと笑って返事をしました。



「ああ、じゃあ今わたしが此処にいると邪魔をしてしまう事になるわね。」



「御免なさい、津路さん」



「良いのよ。また後で来るわ。でも、無理をしてはいけないわよ。」



「ええ、有難う。」



看護婦はそう云って少女の肩に薄い桃色のショールを当てて、

今日は寒いから冷えないようにと念をおして部屋から出て行きました。



また僕と少女の二人きりになってしまい、どう話を切り出そうかと僕は少し戸惑っていました。



「お名前は?」



もじもじと話を切り出せない僕に代わって、少女は自分から話を切り出しました。



「あ、僕は、」



そう云い終らない内にまた彼女が口を挟みます。



「私は加納雪、というの。貴方は、…クレモトさんでしょ?」



「…え、如何して」



僕の名前を知っているのか、と云おうとしてまた彼女が言葉に割り込んできました。



「この間津路さんから聞いたの。『クレモト君が、今度お見舞いに来てくれるわよ』って」





そして、ベッドの横に置かれていた病院独特の簡素な小物箪笥の一番上の抽斗から

掌に乗る程度の小さな紙切れを取り出して僕に見える様に表面を此方に向けました。





「クレモト、…何て読むの?下の名前は」



少女が僕に見せたのは、僕の名が書かれたこの病院の診察券でした。



「あれ、診察券…?如何して君が…」



「津路さんが拾ったのですって。一週間ほど前に」



「あ」

あの時、病院の玄関で看護婦とすれ違った時、あの時に落としたのだ、と僕は思いました。



「有難う。取っておいてくれて。」



僕は素直にお礼を云って、彼女から診察券を受け取ろうとしました。



「待って」



「え」



「先に名前を教えて頂戴。そうじゃないと駄目、返さない」



彼女はそういって手に持った診察券をすっと自分の背中の方へ隠しました。

そして、少し意地悪くにや、と口の端を曲げました。



「…呉元、オサム。鳩、と書いて『おさむ』、と読むんだ。」



「おさむ、」



「…変でしょう?」



僕は少し俯きました。



「鳩(はと)なんて…可笑しいでしょう?」



僕は幼い時から名前を人に告げるのが苦手でした。

僕の名前が鳩という字で書くという事を知った人は皆、『鳩なんて可笑しいわね』と僕の名前を笑いました。

小学生の時分は散々『はと』と名前の事で馬鹿にされました。



僕は、自分の名前が嫌いでした。



「…何が可笑しいの?」



「…え」



「何も可笑しくなんかないわ。鳩って素敵な名前じゃない。」



「でも」



「でもも何も無いわ。私は素敵だと思うわ、貴方の名前。」



「…本当に?鳩なんて、鳥みたいな名前なのに」



「鳥は好きよ、とても。人には無い、飛ぶ事の出来る羽を持っているもの。

鳩も好き。鳩はとても優しいわ。それにとても誠実よ。」



「誠実?」



「ええ。鳩はね、つがいになると相手が死んでしまうまでずっと連れ添う鳥なのよ。

結ばれたら決して離れる事は無いの。素敵でしょう?」



彼女はそういって僕を見ました。

そしてまた、こう云いました。



「貴方も、鳩と同じみたいね。とても誠実そう。」



ふふ、と彼女は笑いました。



「鳩(ハト)さんって呼ぶわ、貴方の事。私のお友達の、鳩さん。」



彼女はそう云ってゆっくりと瞬きをしました。



「…御免なさい、鳩さん。…少し眠くなってきたの、横になっても良いかしら?」



「…ああ、御免。僕こそ、突然お邪魔して悪かった…。もう失礼するよ。ゆっくり休んで。」



僕は少し疲れた様子を見せた彼女にそう云いました。

彼女の顔は、初めに顔を会わせた時のように酷く青白くなっていました。

僕は慌てて彼女の横へ寄り添い、

彼女を無機質な冷たい感じのするベッドへと寝かせました。



「御免なさいね、……鳩さん。」



彼女はもう一度謝りました。

そして続けて云いました。



「お願いがあるの。」



「……何?」



「明日また、此処へ来て頂戴。…お願い。」



「……わかった。必ず来るよ。」



「……有難う。」



彼女は細い声でそう云ってベッドの中へ入っていた手を出して、

小指を立てて僕の方へと伸ばしました。



「約束」



彼女の伸ばされた指へ、僕は自分の指を絡めました。



「……約束」



ひや、と体温の無い指から冷たさが伝わりました。

その白い手を、僕は彼女が眠りに落ちるそのときまで、只じっと見詰めていました。



霙は気も付かぬうちに、止んでいました。







後編