水槽の酸素












部屋で退屈そうに寝転がった少女が突然声を上げた。

「何か聞こえる」





ドアの近くのソファにゆったりと腰掛け、

眼鏡をかけて本を読んでいた少年がやれやれと溜息をつく。

「今度は、何」





少女ははにかみながらベランダの下を指差す。

少年はまたひとつ溜息をついて本に栞を挟んだ。





ベランダから下を覗くと、

北へと駆けていく狐面の少年の姿が見えた。

駆けていくその少年の後姿を見ながら耳を澄ますと、

ひどく微かに笛の音が聞こえた様な気がした。





「……もう、夏祭りなんだ」

狐面の少年の笑い声が路地に響く。

すると少し向こうの曲がり角から、もう一人狐面をつけた子供が現れた。

そして、先程の少年と合流し、

軽快に下駄を鳴らし手持ちの堤燈を揺らして走り去っていった。





「雪、……ねえ、せつ」

少女がふふ、と笑う。

陽がこういう笑い方をするのは、 いつだって欲しい物があるときだ。





「……行きたいんだろう」

「勿論」

「……」







からからと下駄の鳴る音が聞こえる。

沢山の笑い声も、笛の音も。

賑やかな祭の雰囲気が、

物音の無い静かな神社の境内まで伝わってくるようだった。

しかし賑わいのある場所から少し離れた神社の境内には、

雪と陽のふたりきりしかいなかった。





「そんなものが欲しかったの」

「ええ」





陽は上機嫌だ。

境内の縁に腰掛けて、足をぶらぶらと自由にさせて、

手に提げた水の入った手のひら程の硝子球を

月の光の方向へと傾け、じいっと眺めている。

硝子球の中には一色、

真赤な色の金魚が少ない水の中で動く事も無くじっとしているのが見える。





「……元気が無いわ」

「それはそうだろうね、そんな狭いところにずっと閉じ込めていられたら」

「狭いの?」

「金魚に聞いても答えないよ」





不安げに硝子球を左右にゆっくりと揺らすと、

金魚はぱしゃりと一つ、尾ひれを大きく動かして飛沫をあげる。





「やっぱり狭いのね」

「……みたいだね。帰ったら大きな水槽に放してあげたら」

「うちに水槽なんてあったかしらん?」

「さあね」





ふと会話が途切れ、

一拍おいて「そうだわ」と陽が声をあげた。





「良い事を思いついた」

そう言って陽はゆっくりと口角を持ち上げた。











祭囃子が遠のいてゆく。

張り詰めたような空気に呑まれて、その音は少しづつ少しづつ消えていった。

そして、少し寂しさの残る二人の耳には、

その代わりをするように涼やかな水の音が満ちていた。





「本当によかったの」

「…ええ」





ぱしゃん、と金魚は尾鰭を遊ばせて、

流れにそむくことも無くゆっくりと河を下っていく。

その紅は、あっという間に暗い水に溶けてなくなってしまったようだった。





「まさか河に放してしまうなんて思わなかった、あんなに可愛がって……」

「可愛がっていたわよ」

「じゃあ、なぜ」

「だって」





陽は手に提げていた紐付きの硝子球を、

ころりと掌に載せて呟いた。





「だって、ここだって大きな水槽のようなものでしょ?」





雪はそれを聞いて、

ふいにこの星の、美しい「あお」を思い浮かべた。