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静まりかえったホームに微かに届いた汽笛の音は、 あっという間に耳に溶けてしまった。 今時街の方では聴く事の出来ない蒸気機関車のそれは、 いままで聴いた経験もないというのに、僕のなかにひどく懐かしく響いている。 そして溶けた音が僕に染み込んでゆくのに追い付いてくるように、 機関車はまたひとつ汽笛を鳴らす。 無人改札のこの駅にやってくる汽車は一日に三度。 山深くにあるこの駅には十分な数だ。 それに、こんな雪の日には近隣に住む者は家から出てこようとしないのだから、 もうすぐやってくるであろう列車にも、乗る者は限られてくる。 「……寒い?」 僕の隣に佇む彼女は真っ黒なその髪に雪を積もらせ、 黙ったままうつ向いている。 呟いた僕の言葉もすぐに真っ白な水蒸気へと変化をとげて、 雪に溶けてしまったのだろうか。 返事を少し待っては見たものの、 彼女はただ寒さと震えを我慢するように唇を固く結んでいるばかりで 返事はいつになってもかえってはこなかった。 時折何かを返そうと唇から覗かせる君の八重歯があまりに白いのに驚く。 きっとその朱い唇のせいなんだろう。 彼女の朱は、この雪の中ただ一点咲く早咲きの梅のように紅く色付いていて、 そのひどく美しく儚いさまについ溜め息が漏れる。 また一つ、汽車が汽笛を鳴らしたのが聴こえた。 腕時計をちらと見やる。 後五分。 後五分で機関車は定時通り此処へ到着するだろう。 「……つめたい」 今まで一言も返事をかえさなかった彼女が、 唐突に、そして囁きかけるようにそう呟いた。 「つめたい?」 「……ゆびが」 「ああ、そうか……」 そう言って彼女は片方しか手袋をしていない両の手を僕に見せる。 「左手のもう片方は?」 「……なくなった」 「落としたの?」 「わからない」 手袋のない左手の指先を見ると、 それは冷気に触れて、またその血潮が白い皮膚を透けて、 ほんのりと紅く色付いていた。 「手を貸して」 「…なあに」 「いいから貸して御覧」 彼女はおそるおそる、その震えた掌を僕に預ける。 僕はそっと、その掌を両手で受けとる。 そして片側のポケットから黒い革製の手袋を取り出し、それを彼女の掌にそっとはめた。 「……貴方も手袋を持っていたの?」 彼女は少し驚いたような表情で僕を見上げ、そして眉を歪ませ呟いた。 「なぜ今までつけていなかったの?おかしな人ね」 僕はそんな彼女の頭に降り積もった雪を指先で払いながら、 少し笑いながら返事を返した。 「偶然とは案外仕組まれたものなのかもしれないね。 ……この手袋、以前右手を無くしてしまったんだ。 もう使えやしないから捨ててしまおうとも思ったんだけれど、 何だか捨てるのがおしい、そんな気がしてね。 何とは無しにポケットに入れたままにしていたんだ。 そうしたら、ほら。こうして、今は君の左手に収まった。」 「出来すぎてるわ。……物語じゃあるまいし、」 ふふ、と彼女は笑い、 「でも私達にはそういうのが案外おにあいかもしれないわね」 と左手の黒い手袋を天にかざしました。 「……こんな婚約指輪、初めて見たわ」 汽車のけぶった蒸気が煙突から吐き出される様が見えるようになり、 汽笛を鳴らし、それは定時通り駅のホームへとやってきました。 しんと静寂ばかりに満たされたホームに、汽笛はまた溶けていきます。 真っ黒な汽車の姿は今まで降り積もった雪の、その白ばかりを写していた僕の目に、 はっきりと現実の色を思い出させてくれるように鮮明に映りました。 だって、僕達自身の色はもう既にこの雪に溶けて、 全くの白になってしまっていたからです。 名前も、地位も、未来さえも、僕達には必要なかった。 ただ僕達が今同じ気持ちであるという事、僕達にはたったそれだけで十分だったのです。 汽車の速度はゆるやかになり、線路の上をすべるように駅へ進み入り、 そしてギイと固い音をたてて停車しました。 ガシャンと組み合った金属の部品が外れる音とともに、汽車の乗り口が開きました。 「行こう」 僕は彼女の手をとりました。 先程まで震えていた彼女の手にはもう少しも震えは残っておらず、 その指はしっかりと僕の指先を捕え、ぎゅっと固く握り返されました。 赤い手袋の右手と僕の左手はもともと一つであったように、しっかりと結び付いていました。 いっそこの手の総てが融解して一つに固まってしまえば、 僕達はもう離ればなれになってしまう事もないでしょうか。 ああ、そうなればいい。雪が溶けて、水になるように。一つきりに。 「お兄さん、お嬢さん、こんな寒い日に何処へ行くんだい。 ああ、仲が良さそうだもの、もしかして新婚さんの旅行かしらね」 走る汽車の中、向かいに乗り併せた着物姿の老婦人が僕達にそう問いました。 「……ええ、そうです」 僕と結んだ手をしっかりと握りしめ、彼女は少し微笑みそう返事をしました。 「そう、素敵ねえ。暖かい所へ行くのかしら」 ガタン、と大きく車体が揺れると、汽車はトンネルをくぐりぬけ、 窓からは白以外の色が僕の目に飛込んできました。 「ああ、珍しい事もあるもんだ」 婦人が窓を見て呟きました。 「ここの海がこんなに穏やかなのは初めて見たよ」 雪の降りかかる紺碧の深い青色が、荒れる事無く静かに窓の外に広がっていました。 波の満ち引きさえ驚くほど穏やかに繰り返され、泡はゆるやかに青に消えていきました。 「おや、そういえばあなた達は何処へ行くんだったかしら」 ガタンとまた車体が揺れ、汽笛が鳴りました。 僕達は立ち上がり、老婦人に会釈して答えました。 「僕達はこれから海へ行くんです」 僕達にはもう、帰りの切符すら必要ありませんでした。 ***************************************************************************************************** ※所謂、「心中する二人」の物語です。 雪の中列車を待つ二人のほんの時にして十分たらずの本当に短い時間の物語ですが、 一体彼女達にどういう経緯があったのか、そんな事はこの物語には少しも必要ないのです。 |