リテイク 1
ぴとん、ぴとん、と薄黄みがかった薬液が、一滴ずつ垂れ落ちていく。薬液は透明なパックに入って、ベッドの傍らに置かれたスタンドの高い位置に吊るされている。セットされた時の半分程にまで減ったそれは、パックから繋がった細い管の中を流れ、青白い腕へと続いていた。
「……」
点滴を繋がれている青年は、青い血管の透けた腕だけでなく頬も目蓋も、髪すら白い。彼を照らすのが蛍光灯で、周りの壁もカーテンも白に近いアイボリーだから、余計にその空間は眩い。鋼の糸を縒り合わせたような強い筋に支えられた左腕には、点滴の針が刺さっている箇所にだけ、小さな血の固まりがぽつんと赤黒く浮かんでいた。
「ん…」
薄い目蓋を縁取る銀色の睫毛が震える。
癇の強そうな眉がむずがるように寄せられ、人工呼吸器の下で薄い唇も震えた。呼吸器の内側が白く曇る。針を刺されている左腕が動こうとするが、点滴が抜けてしまわないようにと、ベッドの柵に手首を留められているから、それは叶わない。革の手袋に包まれた右手の五指がシーツを掻く。寄せられた眉の下では目蓋がぴくりと震え、まるでとても重い扉をこじ開けようとしているかのように力が籠る。ベッドの傍に置かれた機器に映っている緑色の稜線が、大きく波を描いた。医師の元に絶えず送信されているそのデータのお陰で、青年が目蓋を開く頃には、彼の元に医師と看護師が揃って駆けつけていた。
「やっと起きやがったか」
昼なお暗い特殊暗殺部隊ヴァリアーの屋敷の廊下をザンザスは歩く。彼の部下である青年が三日間の眠りから目を覚ましたという知らせは、すぐに彼の元に届けられた。三日三晩、スクアーロは眠り続けていた。正しくは、意識を失っていた。任務先でヘマをやらかしたらしい。医師からは致死量に近い薬物を吸い込んだのだと聞かされ、着ていた隊服の裾は焼け焦げていたそうだ。そうだ、というのは、スクアーロが屋敷に運び込まれてから一度も、ザンザスが彼の元に向かわなかったためである。意識が無いのであれば報告を受けることもできない。
薬物の成分を体から抜くために点滴や計器に繋がれ、尿道カテーテルまで付けられた寝顔を見に行ったとして、何かの役に立つとはとても思えない。だからザンザスは医師と、スクアーロを屋敷へ運んだ部下からの報告を聞いたきり、病室を訪ねることはしなかった。それが彼が目を覚ましたと聞いて、ようやく重い腰を上げたのだ。石造りの古城にカツカツと硬い足音が響く。この屋敷は何度か改築されているが、根幹は、その昔、まだヴァリアーという組織が独立暗殺部隊と言う名を冠せられる前、ボンゴレ本部の中に置かれていた組織を丸ごと移すために、何代か前のヴァリアーのトップが城を建てさせた時のままだ。
改築された部分も、経てきた年月の差はどうすることもできないものの、素材も調度も大元である建物にできるだけ合わせるように作られている。天井の高い廊下はよく音が響くのだ。音がよく響くから、静かであることも余計に分かる。ヴァリアー随一騒がしい男が、屋敷の中には確かに居る筈なのに、こんなにも廊下がしんと静まり返っているのは奇妙なことだった。
医務室のある区域は比較的新しく増築された部分で、足音がほんの少し変わる。高い天井に木霊するようだったそれが、短く途切れるようになった所で医務室の扉が現れる。ザンザスが扉を開けて中へ入ると、先程彼に内線を寄越した医師が、奥のブースから顔を覗かせた。医務室の奥の一角には、病院ならばICUに当たる、重傷者用のベッドが数台並んでいる。
完全に意識を失くした状態で屋敷に運ばれてきたスクアーロは、そこに寝かされているのだ。ザンザスは消毒液臭い室内を歩いて、ブースから出てきた医師を押し退け室内とブースとを隔てるドアを引く。点滴の薬液が一滴ずつ垂れ落ちる音と、ベッドの横に設置された機械の電子音が響いた。ガラス越しにも白々と眩しいほどだったスクアーロの姿は、直に見ると白過ぎて目に痛いくらいだ。蛍光灯の青白い光が銀色の髪に振りかかって、乱反射する。
クリーム色のリノリウムの床を踏んで、ザンザスはベッドに歩み寄った。ベッドに横たわっているスクアーロのブルーグレーの瞳が、不思議そうに彼を見上げる。自分を見上げてくるスクアーロに物も言わず、ザンザスは丸い額にかかった前髪を引っ掴んだ。
「おいカスザメ」
重く垂れこめた冬の空に似た色の目が、ひどく驚いたように見開かれた。色も肉付きも薄い唇は、ぱくぱくと金魚のように開閉して何かを言おうとする。声は掠れてざらざらとした吐息が漏れるだけで、上手く聞き取れない。喉が痛いのか頭皮が痛いのか眉根は寄せられて、掴まれた髪を離して欲しいように首を竦める。無理に頭を持ち上げられて、病人着の襟元の隙間から、鎖骨の下に付いている歯形が見えた。
ザンザスは元々寄せていた眉間の皺を更に増やして目を細める。頬を殴り付ける為に握っていた拳をほどいて、指の間から溢れる真珠色の髪も離した。スクアーロの頭はそのまま、元のようにすとんと枕に落ちる。先程、年よりも幼く見えるくらいに丸く開かれた目は、今度は恐々とザンザスを窺った。普段は耳を塞ぎたくなるような大声を出すスクアーロの口が、今は何も言わずに結ばれていた。ザンザスは彼に背を向けて、ブースを出る。
ガラス越しでは、医師が心配そうに中を見ていた。彼はこの屋敷に勤めるようになってまだ日が浅い。日本でのボンゴレリングを巡る争いの後、独立暗殺部隊であったヴァリアーが、特殊暗殺部隊と名を変えたのちに雇われた男が、ここに寝泊まりするようになって四年目である。一度マフィアの世界に入ってしまえば、もうここから出ることは出来ない。だから必然的に一か所に長く勤めることが多くなるこの世界では、新入りの部類だ。
最初の一年は、ザンザスが次官であるスクアーロに尽くす暴虐に、驚いた。打撲火傷裂傷骨折、紫色に変色した頬や腫れあがった鼻筋。昨日脇腹に巻いた包帯を、今日替えようと服を脱がせたら、腰骨に指の痕が付いて歯型から血が滲んでいる。別の日には肩が外れて、また別の日には青白い首を一周する手形。とにかくスペルビ・スクアーロの体にはいつもザンザスの痕跡があった。決して大人しい性質ではないスクアーロが、任務では滅多に傷を負ってきたりしないスクアーロが、なぜザンザスからの仕打ちを甘んじて受け続けているのか。なぜザンザスはスクアーロだけを殴るのか。彼にはずっと理解できなかった。果てには、ザンザスはスクアーロを殺してしまうのではないかとさえ思った。青黒く変色した瞼を押し開けて、網膜に異常がないか調べながら、年上の医師はスクアーロを諭そうとしたことがある。理不尽な暴力を受け続ける必要は無いのだと。このままではいつか命を落としかねない、死なないまでも失明や、頭を打ちつけられて脳にダメージが及べば、障害が残ることだってあるのだと。
どこをどう刺せば一撃で人を死に至らしめることができるのか知り尽くした暗殺者に、体の構造や殴打の危険性を語るのは馬鹿げたことだが、彼の傷を見ていると言わずには居れなかった。一言で言ってしまえば、可哀想だった。スクアーロはいつ起きるとも知れない、永遠に起きないかも知れない彼の主を八年待ったと聞いた。
八年。途方もない時間だ。それも十四歳からの八年間。少女が人の母になることだってあり得る時間である。
少年期の一年が、いや、半年、三か月が、いかにきらきらしいものかを思えば、気の遠くなるような年月である。それを経て今日まで付き従うスクアーロに対して、ザンザスの行為はあまりにも酷いと思った。けれども、例えまだ包帯が巻き終わっていなくとも、ザンザスからの使いの部下がスクアーロを呼びに来れば、彼は自分で包帯の端を結びながら立ち上がってしまう。痛みに眉を寄せることはあっても、上司の非道に思い詰める様子はない。文句を言いつつ部屋を出て行く背に長い髪が揺れ、歩幅はいつも通りに大きい。ある時は、肋骨にヒビが入っているかも知れない、とレントゲン写真を撮る準備をしている最中に、珍しく医務室にザンザスが来た。手には一枚の紙を持っている。
「任務だ」
短く言ったザンザスの前に医師が出る。医師の務めとして、今の状態のスクアーロを任務に向かわせる訳にはいかない。見上げた目は赤く、彼の前に立った人物を見て不機嫌そうに細められる。殴られるな、と、そう思った瞬間に後ろから押し退けられて彼はよろめいた。スクアーロが立っていた。シャツの前を開けたままのスクアーロの目はザンザスにだけ向けられていて、まるで物でも退けるように医師を押しやって指令書を受け取る。上から下に視線を滑らせ内容を確認して頷くと、レントゲンを撮ることになっていたということも、先程胸の下に手を当てた時、そこが痛むように眉間に皺を寄せたことも忘れてしまったかのような様子で、医師に向かって、行ってくるなぁ、とだけ告げて歩き出す。
彼は誇らしそうだった。ザンザスは何も言わずにスクアーロよりも先に部屋から出ていった。医師はスクアーロを諭すことを止めた。ザンザスの前に立とうともしなくなった。
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