リテイク 2


「アレは何なんだ」

 赤い目がちらりとガラス越しに後ろを振り返る。ザンザスは怒るよりも、まるで未知の生物に出遭ったような気になった。スクアーロの見目で、言葉を発さず、おそらくは殴られることを知らない。髪を掴まれ引っ張り上げられても、衝撃に身構えようとしない生き物。あんな生き物は知らない。事実、ヘマをした罰にまずは一発殴っておこうと振り上げた拳は、行き場を無くしてほどかれた。
ザンザスがブースから出てくると同時にブースの前から離れた医師が、スクアーロのカルテを持ってくる。ドイツ語で書き記されたそれを、ザンザスは母国語と同じ速度で読み取る。声を出さないのは、吸い込んだ熱気で気道を傷めて声が出せないかららしい。だから吐息が妙にざらついていたのか、とザンザスは納得する。これは直に治るらしい。更に読み進めていくと、記憶障害、という言葉が目に入った。

「記憶障害?」

「ええ、カンナビノイドの影響かと思われます」

カンナビノイド。大麻に含まれる化学物質である。今回スクアーロに与えられた任務は、ボンゴレに隠れて麻薬を売り捌いていたとあるファミリーが所有する、薬物の精製工場を制圧し、機能を完全にストップさせることだった。加えて、工場の責任者、副責任者の身柄を拘束し、以下工場内に居た者をすべて処分すること。本来は雷撃隊のような、統率のとれた十数人の部隊に向く任務である。それをスクアーロを含め四人の部下へ任せたのは、他でもない、ザンザスだ。
結果的に言えば、工場の機能は停止し、責任者と副責任者の身は確保できた。薬物精製に携わっていた者は工場の爆発に巻き込まれ、あるいは隊員の手にかかって死んだ。完遂とはいえないが、相手のファミリーに突き付けるには十分な結果である。既に九代目と、正式に次期十代目として、学業の傍ら九代目のサポートをしている沢田綱吉への結果報告は済んでいる。事前の情報とスクアーロを屋敷に運んできた部下からの報告、そして医師の報告と目の前のカルテを組み合わせれば、今の状況は理解できる。

事の顛末は簡単で、暗殺部隊であると共に他ファミリーへの威圧の道具であるヴァリアーの拷問と、耳を削ぎ腱を断ち生きたまま内臓を引っ張り出すような惨い殺し方を恐れた副責任者の男が、工場内のタンクに火をつけその場に居た人間すべて道連れか、あわよくば混乱に乗じて逃げ出そうとした。男を追い詰めていたスクアーロは巻き添えを食い、けれども部下の報告によれば、左手の剣で彼の太腿を貫き、地面に縫い付けるようにしたまま倒れていたのだという。
恐ろしい程の執念である。そうして、密室で数分間高濃度の大麻を吸い続けたスクアーロは、意識を取り戻しても自分の名前も生業も、ここがどこであるかも分からなくなっていた。一時的な健忘で、大麻の成分が体から完全に抜け、意識がはっきりと戻れば記憶も同時に取り戻される可能性はある。そうでなくとも、何かのきっかけで全てを思い出す可能性もある。けれども、このまま何も思い出せない可能性も、ある。

もう一度ブースを振り返ると、ガラスを隔てた向こうでスクアーロは目を閉じていた。布団を被ってなお薄っぺらい胸が静かに上下している。ザンザスはひとつ息を吐いて、カルテを医師の手に返した。苦い気持ちだった。向いているとは言い切れない任務の指令書を前にして「任せとけぇ」と言い切ったスクアーロの声が蘇る。そういう時、彼は唇の左側だけを吊り上げるようにして笑うから、とても人の悪そうな表情になる。十四から変わらない生意気な笑顔だ。何が任せておけだ。任せた結果がこれじゃないか。できないならできないと言えば良い。自分の無茶な注文なんかに付き合わなければ良い。もうボンゴレのボスになることも叶わない自分に付き従って、何の得があるというのだ。さっさと放り出せば良い。
眉間に深い皺を寄せたザンザスはもう一度ブースに歩み寄る。乱暴にドアを引く。力任せに開けられたドアが大きく鳴って、スクアーロの目蓋が開いた。急な物音にびっくりして、音の原因であるドアとザンザスを見つめるスクアーロに、ザンザスは大きな歩幅で近付いて肩を掴んだ。

「おい、スクアーロ!俺が分からねぇかスペルビ・スクアーロ!」

長い指の先が、薄い病人着を着た筋張った肩に食い込む。肩が外れてしまいそうな痛みに、スクアーロが呻く。眠っている者の目を覚まさせるように体を揺さぶられ、体と一緒に点滴の細い管も揺れた。何かを言おうと声を出そうとしてまたざらついた吐息が洩れ、それが喉に絡まって咳き込みだす。掴んだ肩が上手くいかない呼吸に引き攣り跳ねるのが、ザンザスの手にも伝わる。

「ザンザス様!」

 医師がザンザスを止めようと、後ろからその腕を掴む。年中無休の暗殺部隊のお抱え医師をやっているくらいだ。体力が無い方ではない。けれどもヴァリアーの長を止める自信などある筈もない彼は、ザンザスをスクアーロから引き剥がすため渾身の力を籠めた。手触りの良い上質なシャツに包まれた筋肉は固い。爪を立てんばかりに引っ張ると、ザンザスは意外な程あっさりと掴んでいた肩を離す。籠めた力が行き場をなくして、男はたたらを踏む。手を振り払われる。踵を返したザンザスは今度こそブースを出て、医務室を後にした。医師が見上げた横顔は、唇を真一文字に引き結んで眉根も結ぶように寄せ、けれども、その下の赤い目は怒りに燃えるよりも、どこか倦んだように鈍い色をしていた。ただ怒っているのではない、ということは付き合いの浅い医師にも見て取れた。激昂するよりも、まるで途方に暮れているような。親とはぐれてしまった子供がするような目。
医務室を出る間際、ドアを開けたところで振り返らずにザンザスは言った。

「薬が抜けたら、俺の部屋に連れて……いや、いい。俺に連絡しろ」




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