リテイク 3

スペルビ・スクアーロ。自分の名前らしい単語二つを舌先で転がしてみる。傲慢な、鮫。人間にしては、ちょっとおかしな名前だなぁ、なんて思いながら。
昼間ずっと眠っていた所為で、夜中に目が覚めてしまった。透明なガラスの向こうに見える時計は、午前四時近くを指し示している。外の様子が分からない、時計の針の音さえ聞こえない暗がりでは、自分が息をする音と、腕に繋がれた細長い管の中で水が落ちる音がやけに大きく聞こえて、胸の中がざわざわと波立った。医者はここは自分の家のようなものだと言ったけれど、自分はこの家の間取りも、家というからには居る筈の、家族のことも思い出せない。二階建てだろうか三階建てだろうか。自分の部屋はどこだろう。家族は何人で、そういえば、あの男はどういう存在なんだろう。自分の名前を呼んだ男の、赤い目が蘇る。
縋るように掴まれた肩は痛かったけれど、彼はとても必死だった。自分から離れた時の彼は泣きそうにも見えた。ザンザス、と呼ばれていた彼のことを、後で医師に聞いたけれど、医師は教えてくれなかった。自分が語ることではないと言われて、だからスクアーロは、ザンザス、という名前と外見しか彼のことが分からないままだ。あんなにも必死に呼ばれたのだから、おそらくは大切な人だったんだろう、とは思うけれど。

左腕をベッドの柵に固定しているバンドのマジックテープをびりびりと剥がして、体を起こしたスクアーロは、自分の腕から点滴の針を抜いた。リノリウムの床を、ぴとん、と薬液が打った。まだ少し頭が重かったけれど、気持ちが悪くなる程ではない。体をずらして、ベッドの下にあるスリッパを履く。殆ど一日中ベッドの上で横になっているから、足に体重をかけて立ち上がった時には何だか不安定な気がした。ぺたん。スリッパの足音が響く。左手が重くて、真っ直ぐ歩くのが難しい。昨日手袋をそっと捲ってみたら、手首の先からは右手とは違う、ロボットのような固い機械の手が付いていた。何で左手と右手が違うんだろう。生まれつき、左手が無かったのだろうか。

ぺたん、ぺたん。ガラスのドアを開けてブースの外に出ると、スクアーロはきょろきょろと辺りを見回した。昨日ブースの外に出た時はまだ頭に靄がかかっているようで、周りの景色も音も、どこか遠いもののようだった。消毒液の匂いがツンと鼻をつく。時計の針が進む音がする。夜中に仕事にあたることが多いヴァリアーの医務室は、夜でも完全に灯りが消されることは無く、室内が見渡せる程度のぼんやりとした照明が灯されたままである。わずかな光源の下でスクアーロは室内を歩いた。体の右と左との重さのバランスが釣り合わずに、背中がゆらゆらと危うく揺れる。広い室内を横切って、ドアの前に来る。外開きのそれを開けた。生命の危機という点での危険は無くなった彼が、ベッドを抜け出したことに、当直の医師も看護師も気付かない。

医務室から出ると夜明け前の空気が、薄い衣服越しに肌を撫でて、スクアーロはまた辺りを見回す。右も左も分からない。尿道カテーテルが抜かれてからもトイレは医務室の中にあったし、体は看護師が温かいタオルで拭いてくれた。自分の家である筈なのに、どこへ行けば何があるのか分からない。それでも今出てきた部屋に戻る気はしなかった。ぺたん、とスリッパを鳴らして彼はまた歩きだす。薄暗い廊下の途中に窓があった。開けてみると廊下よりも更に冷たい外気が、春に咲く花の甘い香りを微かに乗せて頬に触れた。どうやらここは、とても大きな建物らしい。窓から身を乗り出したスクアーロは、目の前の庭を取り囲むようにして建っている屋敷を見上げた。まだ灯りが点いている場所がいくつもある。灯りが点いている場所には、人が居る筈だ。人に会えば何か分かるかもしれない。
この家のことや、自分のこと。家族のこと。彼のことが。

灯りが点いている場所へ行く、と決めても、そこへの行き方は分からないのだから、スクアーロはただ歩いた。それでも先程見た場所は自分の居る場所よりも高い、三階か四階にあるようだったから、廊下を歩いていて見つけた階段を昇った。建物は迷路のようで、確かに上の階はある筈なのに、次の階に続く階段が今昇った階段とは別の場所にあったり、ふと気がつくと同じ場所に戻ってきてしまうこともあった。薄い病人着しか身に付けていない体が、だんだんと冷えてくる。それに、一週間近くベッドの上でばかり過ごしていた所為で、ただ歩いているだけの筈なのに疲れてきた。左手がひどく重い。通りがかった窓の外が白み始めてしまって、スクアーロは溜め息を吐き壁に凭れかかる。もう先程まで居た医務室にだって戻れる気はしない。
そんな時、薄暗い廊下の端からかつん、と軽い足音が聞こえてきた。人が居る場所に行こうと思って歩きだしたにも拘わらず、いざ人と会うとなると不安になってきて彼は肩を強張らせた。家族かもしれない。けれど、見ても分からないかもしれない。廊下の端から現れる筈の人を待って、スクアーロがじっとそこを見つめていると、薄暗がりの中から黒いコートを着た金髪の青年が現れた。編み上げの白いブーツにボーダー柄のTシャツ。顔の大半を隠している金髪の頂には、きらきらと光るティアラを乗せている。

「あっれー?スク先輩じゃん。何その格好。またボス?それとも何かミスった?」
「何だ、それ…」
 遠目からでは模様に見えた、白いブーツに散った赤い斑点が青年の頬にも付いていることに気付く。先輩、といわれてもこの青年が誰で、自分とどういう関係なのか分からない。親しげに歩み寄ってくる彼のコートが薄明りに反射して、ぬめったように光った。赤色の絵の具で塗られたように、一面べったりと赤い液体で濡れている。青年が歩く度に、足元にぽたりと染みができる。それも赤かった。胃が縮こまるようなツンとする匂いが鼻を刺して、背筋が冷たくなった。スクアーロの問いに金髪の青年は首を傾げ、それから自分の体を見下ろす。琥珀色の灯りに反射する髪が、星の粉でも零れそうに輝いた。

「え?ああ、へーきへーき。全部返り血」
「返り血?」
「そ。何、どーかしたの?何か変だよお前」
「返り血って、人間の…?」

 ベルフェゴールは厚い前髪に隠した眉を顰めた。どうも会話が噛み合わない。薄水色の病人着を着たスクアーロは、大方ザンザスに手酷く殴られて医務室送りにでもなったのだろうと思うが、しかし、自分を見て後退るとはどういうことだろう。普段なら返り血にまみれた自分を見て、呆れたように溜め息を吐き「相変わらず悪趣味だなぁお前。さっさと風呂入って来い。あ゛、オレのシャンプー使うんじゃねぇぞぉ!」と、あの一キロ先でも聞こえそうな大声で怒鳴るスクアーロが、まるで囁くような声で聞いてくるなんて。
せっかく珍しいワインを買ってきたから、久しぶりにスクアーロとルッスーリア辺りと一緒に飲もうと思ったのに。地方での任務を終わらせ、一週間ぶりに屋敷に帰ってきた彼は思う。帰ってきて一番最初に会った相手に不可解な対応をされ、ベルの声が苛立ちを帯びる。

「当たり前じゃん、鶏殺すのが仕事な訳じゃないんだしさ」
「ひと…殺し…」

いよいよおかしい。スクアーロは元から血色の良くない顔を更に青白くさせて、凭れていた壁に沿って更に後退った。その指先が小さく震えているのが見えた。マーモンの幻覚か?でも何のために?それとも殴られ過ぎてとうとう頭がおかしくなったのか。ふざけてやっているのではないことは分かる。

「はぁ?いや当たり前じゃね?暗殺者じゃん俺ら。人殺し以外の何だと思ってんの?つーかどうしちゃったワケお前。ついにぶっ壊れた?」

 どうしてかは分からないが話の通じないスクアーロを、このまま放っておく訳にもいかない。血の気のない顔は唇までが真っ白で、いかにも具合が悪そうに見えた。医務室に向かわせるか、部屋で寝かせておくべきなのに、自分が一歩近付く度にスクアーロも一歩後退る。

「来るな…来ないで…」

懇願する声はやはり細く、子供がそうするように小さくかぶりを振る。照明の色に染められてほのかにオレンジがかった長い髪が、スクアーロの頭の動きにつられて揺れる。じりじりとしたいたちごっこに焦れてベルは歩調を早くした。殆ど駆け寄るような勢いで近寄ろうとすると、逃げだそうとしたスクアーロが足を縺れさせて転ぶ。眦が裂けんばかりに見開いた目いっぱいに、血にまみれたベルの姿が映った。

「来ないで…!い…や…いや、いやぁああああ!!」





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