リテイク 4
響き渡った悲鳴に、あと十センチで触れるところだった指先がぴたりと止まる。伸ばした手を引っ込めて呆然とするベルの目の前で、へたり込んだままのスクアーロがなおもずるずると後ろへ逃げる。勝気な性格を表すように吊り上がったまなじりに、今は涙が溜まっていた。
「何だ、今のは」
絹を裂くような、とはいかないが、夜明け前の薄紫色の空の静けさを破る悲鳴が耳を引っ掻いて、ザンザスは階下へ向かった。悲鳴自体は、この屋敷では決して珍しいものではない。地下の拷問室に響く悲鳴。あるいは、ベルの気紛れでナイフの的に選ばれた部下の悲鳴。めでたくコレクション入りと決まった死体を抱えたルッスーリアと鉢合わせた者の悲鳴。そういった悲鳴ならば、もちろんザンザスは放っておく。ザンザスが構わなければならないものでもない。けれども、今聞こえた声は、確かにスクアーロのものだった。まだ医務室からの連絡は届いていないが、悲鳴は医務室程遠い場所からではない。ごく近い所から聞こえた。
部屋を出て、廊下の半ばにある階段を降りると、ベルの姿が見えた。一週間前に言いつけた任務から帰ってきたのだろう。期限は明日だ。
「ボス…」
声をかけると華奢な肩がびくっと震えた。どうやら、声をかけられるまでザンザスが来たことに気付いていなかったらしい。前髪で鼻先近くまで隠れているが、こちらを向いた顔はばつが悪そうだった。
「こいつ何かおかしい」
「ベル、下がってろ」
八つの時からずっと一緒に暮らしていて、兄のような存在であるスクアーロの態度に、ベルは声を震わせた。別に何をした訳でもない。任務帰りの自分と、屋敷にいたスクアーロが会う。これまでに何十回もあった日常だ。なのにスクアーロは血に驚いて、ベルに怯え拒絶した。言われるままに、ベルはスクアーロの傍から離れる。代わりにザンザスが彼との距離を詰めた。
「スクアーロ」
「…ザン…ザス」
怯えて項垂れていたスクアーロが顔を上げる。後退りをする内にスリッパが片方脱げて、彼は片足だけ裸足になっていた。それでもなおも逃げようとする。
「大丈夫だ」
頑是ない子供に言い聞かせるようにザンザスは話しかけた。自分がスクアーロに向かってこんな風に喋れるだなんて、ザンザス自身知らなかった。血濡れの青年と自分の間に立つザンザスを見上げるスクアーロの瞳から、眦に溜まっていた涙がツウと頬に伝う。瞳の色が青灰色の、氷のような色をしているから、それは凍った湖から一滴の水が溶けて零れるようだった。琥珀色の照明に濡れた瞳が光る。ザンザスの指先がスクアーロの肩に触れる。腰を屈め、跳ねた肩を引き寄せる。
「ねぇどうしたの?今の声」
ザンザスに遅れて階段を降りてきたルッスーリアが、ぼんやりと立ち尽くしたままのベルと、スクアーロの頭を撫でるザンザスの背中とを見て、ああ、と納得したような声を漏らした。
「ベルちゃん、とりあえずお部屋に行きましょう。アタシが説明するわ」
「何、あれ。あいつどうしちゃったの?」
ザンザスは冷えた肩を両腕で包み、それから額にキスをした。ぐずる子供にするような軽いキスだ。余分な肉どころか、筋肉さえ剣を振る為の腕と肩を残して削ぎ落したような外見に反して、義手の分の重さも含まれて見た目よりも重い体を抱き上げる。スクアーロの腕がおずおずとザンザスの首に回される。そのまま彼を抱えて、ザンザスは廊下を歩いた。ベルの隣を通り過ぎる時にスクアーロの体が強張り、回した腕が幼子のようにザンザスの首にしがみ付く。サングラスの奥から心配そうに見つめるルッスーリアに向かって、ちらりとベルに視線をやってみせる。大の男一人を抱えて、もう両手が塞がってしまった。さしものザンザスも、ベルの頭を撫でてやることはできない。
信じられないものを見るような目で見上げるベルとも一度目を合わせ、ザンザスは階段を登る。耳のすぐ横で荒れた呼吸が聞こえた。ザンザスが歩くのと同じリズムでゆらゆらと揺れる足の先から、残っていたスリッパが脱げた。階段の途中に転がったそれを、ザンザスは拾わない。
「あ、…」
スクアーロが気付いて小さく声をあげるが、ザンザスの肩から少し顔を上げて暗がりの中にぽつんと浮かぶ白いスリッパを見て、それきりだった。幹部達の部屋のドアが並ぶ廊下を歩いて、自室に着く。執務室を抜けて続く居室を横切り、寝室に向かう。メイドによって皺のひとつも無く整えられたベッドにスクアーロを座らせてから、電気を付けた。
「ザンザス、…俺は、人殺しなのか?あいつが俺らは暗殺者だって。なぁここはどこなんだ?俺は何なんだ?あいつは?あのサングラスの奴は?お前は?」
「落ち着けスクアーロ。医務室の奴らはお前が出てきたこと知ってんのか」
「…勝手に出てきた」
いつからかは知らないが、空調の利いた医務室ならまだしも、石造りの城の冷えた廊下を薄い病人着だけで歩いて冷たくなった肩に、ザンザスはソファに置いてあったブランケットをかけてやった。その拍子にまたスクアーロの肩にザンザスの指が触れて、スクアーロは、見上げた赤色の瞳にまるで縫い止められたように目が離せなくなる。
そういえばさっき、この部屋へ来る時もザンザスに抱き上げられ、彼の鼓動が衣服越しに伝わってきたら安心できた。肩に顔を埋めて匂いを感じたら、呼吸が楽になった。あんなにも必死に自分を呼んでいた彼はきっと、大切な人。
「なあ、ザンザスはもしかして、俺の家族なのか?」
「家族じゃねぇ。恋人だ。十二年前からな」
なぜそんな言葉が滑り落ちたのか、ザンザス本人にすら分からない。恋人。あまりにも似つかわしくない言葉だった。恋人というのはキスをしてセックスをしてアモーレと言い合う、そんな関係の筈だ。キスもセックスもした。けれどそれ以上に殴って痛めつけた。十四歳の時にスクアーロが誓ったのは忠誠で、愛ではない。彼の左手も、長く伸ばされた髪も、愛なんて不確かな、二度も自分を裏切ったようなものにかけられた訳ではない。その忠誠だって、ザンザスは信じられなかった。
自分の手の甲にキスをした男が処刑された話なんて、聞き飽きる程聞かされた。部下の淹れたコーヒーに薬が入っていた。車に細工がされていた。スクアーロとて、自分がボンゴレのボスになるというから付いてきたのだろう。何しろボンゴレのボスといえばマフィア界全ての王、裏社会の王といって良い。だから自分が八年に及ぶ眠りから目覚めて、スクアーロの長い髪を見た時には驚いた。願掛けだとは言っていたけれど、十四の少年が、彼の目の前でボンゴレ九代目に敗れた自分を待っているとは思わなかったのだ。
本当に馬鹿だと思った。八年もあったのに、まだ騙されたままで待っているなんて。自分が眠らされていた間、彼がどれだけの辛酸を舐めたのか。知るつもりもなかったそれはしかし、ザンザスが目覚めてなおヴァリアーが失われていなかったことに既に表れていた。
そうして今度こそ九代目を殺し、指輪を手に入れて十代目になるつもりだった。けれど、大空戦の終盤にようやく手に入れたボンゴレリングは、ザンザスを拒んだ。ザンザスを捨てた母のように。実の息子だと嘘を言った義父のように。
リングに拒まれ、永遠にボンゴレのボスにはなれないことが決まったザンザスを、スクアーロはきっと見限るだろうと思った。彼は元々プライドの高い男だ。誰の下にも付きたがらない、スペルビの名に相応しい傲慢さをもっている。これまで散々な扱いに耐えてきたのは、ザンザスがボンゴレのボスになると思っていたから。殴られ蹴られ罵られて、それでも傍に居るのはボンゴレのボスとなるザンザスに忠誠を誓ったから。
それでも、あの戦いから数年が経った今もスクアーロはザンザスの隣に居た。殴られて蹴られて、髪を引っ張られて時には犯され、文句を喚き散らしながらも離れていこうとはしなかった。いつ見限るかと思っていた。頭から酒を浴びせた。靴の底にキスをさせた。特別きつい任務ばかりを与えてみた。それでもできないとは言わなかった。離れるとは言わなかった。
これが愛なんぞと同じものであろうか。母が囁いた、義父が自分を見つめて優しそうに目を細めて告げた、愛?
だから自分とスクアーロは、決して、恋人なんぞという安っぽい甘ったるい関係である筈はない。
「十二年も?男同士で?」
「気色悪いか」
「…ううん。ザンザスなら、分かる。さっきザンザスに抱きついた時、何か安心したんだ」
けれどスクアーロは拒まない。以前の、一週間前のスクアーロならば何と言うだろうか。「コイビトォ?」まるで初めて聞く単語のように目を丸くするか、それとも「オレはアンタを守る剣士で、アンタは主人だぁ!ンなくだらねぇモンじゃねぇ!」なんて言って怒るか。どちらにせよ、今考えても意味の無いことだ。今目の前に居るスクアーロは、そろそろと差し込み始めた朝日に頬を照らされて、唇には微かな笑みを浮かべている。
「さっきの質問の答えだが、俺らが人殺しなのは本当だ。ただしてめぇは違う。俺の秘書だ。金髪のガキはベルフェゴール。サングラスの奴はルッスーリア。ここはマフィアの中でも汚物処理専門みてぇな部署で、みんなこの屋敷で暮らしてる。そういう意味では家族みたいなモンだ」
「マフィア…」
「そうだ。世界中のマフィアの中でも一番でかいマフィアだ」
「ザンザスも人を殺すのか?」
「殺す。何百人も殺した。俺はここのボスだから、ベルが殺したのも、全部俺が殺したようなもんだ。…てめぇがここと無関係になりたいって言うなら、できなくもねぇ。俺が手配してやる」
「ここと、無関係に…」
ヴァリアーと無関係になる。不可能に近い話だということは、持ち掛けたザンザスが一番分かっている。スクアーロはザンザスの秘書なんかではない。一番多く前線に出て、おそらく一番多く人を殺している。ザンザスの居なかった八年間で一等ボンゴレに使われていたのは、他でもないスクアーロである。彼の足はマフィアという暗い沼にどっぷり浸かりきっている。買っている恨みの数だって半端なものではない。ボンゴレの最高の牙、暗殺部隊ヴァリアーの副隊長スペルビ・スクアーロを殺したい者は数えるには、両手両足の指を使っても足りない。剣帝を倒した男を殺して名を上げたい者だってたくさん居るだろう。
そんなスクアーロが、しかも血を見て怯えるような今の彼が剣も持たずに一人で外に出たら、それこそさあ殺してくれと言っているようなものだ。ボンゴレの手がける企業のひとつにでも勤めさせて、常に監視と護衛を付けながら一生を送らせる以外には、ザンザスにも手立てがない。
けれどもしスクアーロが願うならば、たとえそれだけのことしか出来ないとしても、ザンザスはそうするつもりだった。左右のポケットに白と黒の小石を入れたと言って、こっちは黒だ、と右のポケットを開けて見せ、さあ白を選べと言ったのに、左のポケットにも黒い小石を入れているようなものだと思うが、けれど元からザンザスの足元に落ちていたのは黒い石ばかりだ。その中にほんの少しだけマーブル模様が混ざっていて、だからせめて、と、その石を左に入れた。
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