リテイク 5

「俺はここから…出て行きたくない」

朝日に照らされていく部屋の、天蓋の影でスクアーロは呟くように言った。それを聞いてザンザスは息を吐き、やけに大きく響いた音で自分が彼の答えを聞くまでの間、息を止めていたことを知る。

「良いのか。今出て行かなかったら、死ぬまでここで暮らすことになるぞ。さっきみたいのはここじゃ生ぬるい方だ」

出て行くことを促すような言葉の傍ら、ザンザスはスクアーロの腕を思い出す。先程ザンザスの首に子供のようにしがみ付いてきた、あの腕の強さだ。離さない、離れない、と言わんばかりの腕。

「うん。十二年も一緒にいたんだ。それに医者がここは俺の家みたいなものだって言ってた。今更離れるなんて、……もちろん、ザンザスと他の皆が良いなら、だけど」
「それくらいのことでガタガタ言う奴らじゃねぇ。俺から言っておく」
「さっきの…ベルフェゴール?ベルにごめんって」
「言っておく」
「そうだ、それともう一つ聞いて良いか?」
「何だ」
「俺の左手。これ、元々左手が無かったのか?それとも何かあってこうなったのか?すごく重いんだ。ザンザスが何か知ってたら、教えて欲しい」

少し躊躇った後にザンザスは言った。

「交通事故だ。交通事故でお前は左手を切断することになって、代わりにそれが付けられた。重くて不便かもしれねぇが、今の技術では最先端の義手だぞ」
「そっか、交通事故か…」

 十四の時に、剣帝と呼ばれる男と戦って斬り落としたものだとは、とても言えない。スクアーロの義手が重いのは、剣を括りつけて戦う彼の戦闘スタイルの為に義手の殆どの部分が頑丈な金属で作られているからであって、日常生活を送るだけならばもっと軽くて使いやすい物がある。先程腕を回された時や、普段セックスをする時に、ザンザスも彼の義手の重さを身をもって感じた。慣れていなければ、真っ直ぐ歩くのだって難しい重さだ。
けれどかつてのスクアーロは、腕を切断してから義手を付けるまでの間としては、あまりに短すぎる期間で義手を繋いで、すぐに剣を扱う方法を考え、訓練した。その間、痛いとも重いとも聞いたことは無かった。
目が覚めてからルッスーリアに聞いた話では、ザンザスが眠らされていた八年の間、幻肢痛に苦しむこともあったそうだが、本人の口からそれを聞いたことはない。ただ一度、隣で眠っている時に唸り声がするから煩くて目が覚めてしまって、腹が立って殴ったら飛び起きたスクアーロが左手を見て、それから自分の顔を見て安堵したような表情を浮かべたことは覚えている。

 ザンザスは、交通事故で左手を失い、十二年前から恋人であり自分の秘書であるスクアーロの肩に手を掛け、もう片方の手では額にかかった前髪を払って唇を落とした。まるで普通の恋人のようだった。

「そろそろ寝るぞ」
「眠れなくて出てきたんだ」
「俺が眠い。それにここの朝は遅い。もう一眠りしろ」

電気を消す前に医務室に内線を繋げる。病人が抜け出したことに気付かなかったのは問題だが、今のザンザスはそれを咎める気分ではない。

「おい、スクアーロが俺の部屋に来てる。薬は抜けたんだろう?今日からはここで寝かせる。必要な薬があればここに持って来い」

 電気を消しても、窓から差し込む朝日で部屋は明るかった。日差しから隠れるように、天蓋の布を縛っている紐をほどいて帳を下ろし、暗くなったベッドに横になる。小柄とはいえない二人が一緒に横になっても、寄り添って寝ずに済むほどザンザスのベッドは広い。本当はちっとも眠たくなんてないザンザスが目を閉じていると、少し離れた位置に居た筈のスクアーロが微かな衣擦れの音だけをさせながら寄ってきて、彼の顔を見つめた後にそうっと額に唇を寄せた。
スクアーロが寄って来たことも、見つめられていることも目を開けずとも分かっていたのに、それでも額にキスをされて驚いたザンザスが目を開けそうになる。スクアーロはまるで逃げるようにベッドの上で体を離して、けれど、ザンザスがそのまま目を開かないで居るとまたおずおずと寄ってくる。結局拳三つ分の距離を開けて、一週間近くも寝てばかりいたのにいきなり屋敷を歩き回って疲れたのだろう、スクアーロはザンザスよりも早く眠った。

八年の眠りから覚めたのち、ずっと不眠症気味であるザンザスはスクアーロよりも後に眠って早く起きた。起きて一番にスクアーロの部屋から制服や身の回りの品、彼が日常に使っていた物を、武器以外全部自分の部屋に運び込むように言いつけた。スクアーロが目を覚ます頃には、彼がかつて着ていた制服や下着、使っていたドライヤーや剃刀までもがザンザスの部屋に揃えられていた。
バスルームには彼が愛用していたシャンプーとトリートメントのボトルが並び、洗面台には歯ブラシが二つ並んだ。元々物が少なかったスクアーロの部屋は余計にがらんとして、日々使っていた長剣やスペアの剣、仕込み火薬のセットや剣の手入れ道具が空き部屋のようになった部屋に残された。自分の部屋がどこか知らないスクアーロが、そこに入ることは無かった。生活用品は全て持って来させたし、足りない物があれば買えば良いとザンザスが言ったからである。知らないものを足りないと思うことなど無いのだから、彼には、自分の部屋に入る理由は無かった。

朝になり昼になり、夜が来る。スクアーロはザンザスの秘書として、一日の殆どを彼と共に過ごした。黄金色と鴇色の光が空を射る朝焼け。大海原を映したかのような晴天の昼。あるいは、スクアーロの長い髪のように透き通った雨の降る日。山の稜線が静かに燃え上がる夕暮れと、夥しい星の散る夜。ある時にスクアーロは気付いた。夕焼けの赤は、ザンザスの目と同じ色をしている。彼の目は世界を焼き尽くす炎である。

最初に拳三つ分開けられていたベッドでの彼らの距離は、次第に縮まり、遂には寄り添い眠るようになった。スクアーロを腕に抱いて横になると、不思議とザンザスはよく眠れた。酒とつまみばかりで三度の食事にも消極的だった彼だが、スクアーロがそれでは良くないと言うので、二人でテーブルを囲むようになった。
元々幹部用の食堂室に行くことは少なかったザンザスだが、近頃は更にその回数が減った。これまでは任務でもない限りそこで食事をとっていたスクアーロも、殆ど姿を見せなくなった。彼らの食事は二人きりで、ひっそりと、と言って良い程静かになされていた。勿論、生まれは下町とはいえ、ボンゴレに引き取られた後は幼い頃から贅沢に慣れ親しんで育ったザンザスの食卓である。静かでこそあれ、慎ましやかである筈はない。
牛肉は最高級の和牛、魚介類は今朝獲れたもの、野菜は専属の農家から買い付けている無農薬野菜を、五つ星ホテルのシェフだった男が調理する。けれど酒量の減ったザンザスは以前のように、酒の合間に肉を口に運んで飽きたら捨て置く、なんて真似を止めたし、スクアーロは、以前はこの体のどこにそんなに食物の入る場所があるのだろう、と不思議に思うような、体格に釣り合わない大食らいだったのが、運動らしい運動をしていないからか小食になった。食事の最中にワインボトルが割れて皿がひっくり返され、絨毯にべっとりとミートソースが張り付くこともない。

昼食を終えて少し経った頃、スクアーロは、ちょっと散歩してくる、とザンザスに告げ部屋を出た。今は初夏。窓から差し込む日差しはきらきらと眩しくて、窓辺に映る木々の緑は日に日に濃くなっていく。深い森の中にあるヴァリアーの屋敷では薄い長袖一枚が心地良い、過ごしやすい季節だ。
ザンザスはスクアーロが執務室と居室、寝室といった彼の部屋から一人で出て行くのをあまり好まなかったが、幸いスクアーロが歩こうとするのは、ローマの街並みやフィレンツェではなく、彼の物と言って良いヴァリアーの敷地内である。それにスクアーロはザンザスの気持ちを知ってか知らずか、あまり彼の部屋からは出ようとしない。二日に一度程度の庭の散歩が精々で、他は、ミラノに服を買いに行くにしても、たまに作る食事の材料を買いにグロッサリーストアに行くにしても、ザンザスと一緒に出掛ける。

中庭に植えられた薔薇は今が丁度盛りで、大輪の白薔薇や重たく顔を伏せるオールドローズ、小さな棘がびっしりと生え、触れたら手を切りそうな茨も花を咲かせて甘く香り、風までもその匂いを乗せて吹く。長い髪を時折風に擽られながら、スクアーロはゆっくりと歩いた。彼が歩くのは敷地のほんの一部で、屋敷を取り囲む緑は狩りができる程広く、いざとなればこの城の周りの森だけで一か月以上は籠城戦ができるくらいだ。

庭師によって美しく整えられた中庭にも、いくつか実の生る木が生えている。オレンジやレモンや木苺、すぐりに無花果。中でも薔薇が咲くようになってから、スクアーロが散歩の度に見ているのがスモモの木だ。薔薇の花が咲きだした頃に、それまでは黄緑の葉ばかりだった枝に小さな緑の実が生っているのを見付けて、それからは次第に実が大きく膨らんでいく様を楽しみにしていた。やがて薔薇の花が盛りを迎えると、このスモモの木に実った果実も赤く色付いて、暖かな日差しに反射して瑞々しくつるんと光った。
ザンザスは、この庭にある物は好きにして良いと言っていた。庭師が丹精込めて咲かせた薔薇も、欲しくなれば手折れば良いし、棘が心配なら庭師に言って切らせてば良い。赤色が好きなら明日にでも植えさせよう。青い薔薇が見たいなら日本から取り寄せる。もしも桜の花が嫌いなら、桜の木なんて切ってしまえば良い。
スクアーロには生憎熱心に花を愛でる趣味はなく、薔薇は切られず庭が赤一色で埋まることもなく、桜の木も変わらずに薄い葉を日に透かしているけれど、このスモモを見ていると、どうしても欲しくなった。
食べたいというよりも、この実を木からもぎたい。赤く艶めくスモモはまるで、楽園の林檎のようにスクアーロを誘惑した。見上げると手前に建った建物の影ではあるが、ザンザスの執務室の窓とバルコニーが見える場所に生えているスモモの実をもいでスクアーロは部屋に帰った。掌で隠せてしまうくらいの小さな実なのに、部屋に向かう間中手の中から甘酸っぱい匂いがして、執務室に入ればインクの匂いよりもその匂いで室内が満たされた。

「ザンザス、これ取ってきたんだ」
「スモモ?庭でか」
「うん。綺麗だろ?」
「綺麗っつったって、これは食べ物だぞ。しかもこんな小せぇモンを一個って、もっと取ってくれば良いだろ」
「あ、そっか。じゃあ今日は二人で半分こしようぜ」

 机の上にころんと置かれたスモモをザンザスは取り上げて眺めた。身は締まって固く、けれど皮はつやつやと紅色に色付いて、なるほど、美味しそうだ。昼食が濃厚なクリームソースのパスタだったから、余計に爽やかな匂いにそそられる。指で擦るときゅっと音を立てたその皮に、ザンザスは歯を立てた。歯が果肉の繊維を断ち切って沈む。果汁が溢れて口の中を満たす。初夏の日差しをいっぱいに浴びた果実の、どこか青みのある匂いが部屋中にぱっと散った。

「…ん」

自分の歯型が付いたスモモを、今度はスクアーロの口元に運ぶ。自分が食べた所に隣に、スクアーロの白くつやつやした歯が埋まった。けれども溢れた果汁を上手く吸えず、スモモの皮を伝って甘い汁がザンザスの手を汚す。手首を伝い、折った袖に届きそうになった果汁をスクアーロは舐めて拭った。久しぶりに彼の舌を肌に感じて、身内に火が灯ったかと思うほどかっと体が熱くなったような気がしたザンザスは、スモモを差し出していた手を引っ込め、代わりに片手でスクアーロの小さな丸い後頭部を押さえて、濡れた唇に自分の唇を重ねた。





back←→next