リテイク 8
朝起きて、もう高い場所へ昇りつつある日差しに照らされたスクアーロの髪の毛先が、随分傷んでいることに気付いた。これだけ長い髪なのだから、寧ろ今まで傷みが目立たなかったことの方が珍しいが、この髪に願掛けをしていたスクアーロは、誓いの証である髪を美しく保とうとシャンプーとトリートメントにこだわり、独自の方法で髪を洗っていた。ヴァリアークオリティとさえ言われた方法で洗われていた髪には、枝毛の一つも無く、いつも絹糸のようにさらさらと指の間を滑り落ちた。
けれども、ようやく日常生活よりも戦闘に重きを置いている筈の義手に慣れた今のスクアーロは、シャンプーとトリートメントこそ前と同じ物を使ってはいるが、ごく普通に髪を洗う。これが普通の長さなら、別段気になることでもないだろう。スクアーロ以外の人間でも、気にならない。スクアーロの、体や顔がいくら傷だらけで青痣が浮かんでいても、それだけはいつも傷一つ無く艶やかだった髪だから気が付いたのだ。
「んー…」
ザンザスが髪の毛先を摘まんで日に透かしていると、まだ形の定まらない眠たげな声がスクアーロの口から零れる。
「ザンザスおはよう…、なにしてるんだ?」
「髪を見てた」
「髪?」
首を傾げながらスクアーロは己の髪を見た。銀色の、長い髪の毛である。自分の好みで伸ばしている訳ではなく、一番初めに鏡に映った自分の髪が既に長かったからそのままにして、切れと言われたことが無いから切ったことが無い。
「傷んできてるな、と思って」
「切った方が良いか?」
「あ?」
「え、だから切った方が良いかな?それともこれ、ザンザスが長いのが好きだから伸ばしてるのか?」
ザンザスの頭に、がつん、とまるでハンマーで殴られたような鈍い痛みが走る。簡単な話だ。傷んだ髪は、切れば良い。なぜ気が付かなかったのだろう。スクアーロの髪は長くなければいけない気がしていた。長く長く、十四歳と十六歳の少年だった過去と、今を結ぶ一本の糸のように。
「別に長いのが好きって訳じゃねぇ。伸ばしてるのを止めてなかっただけだ」
「ふぅん。何でこんなに髪が長いのか、ちょっと不思議だったんだよな。風呂入ってもなかなか乾かないし、ベッドで背中に敷くと痛いし」
「昔は短かったぜ」
これくらい、と、ザンザスは髪の束を握っていた手を、項の辺りまでずらした。ぴょんぴょんと後ろへ髪を跳ねさせていた頃のスクアーロが、ワックスを使わないで髪を濡らしている時と同じ位の長さだ。
「いきなりそんなに短くしたら風邪ひきそうだな」
「じゃあもう少し長くすれば良い」
言ってまたザンザスは手をずらす。今度は自分が知らない内に伸ばされていた、肩口の辺りまで。
「うん、これくらいが丁度良いかも」
「決まりだな」
その日中に美容師を屋敷に呼んで、スクアーロの髪を切らせた。肩に届くか届かないか、という位置で揃えられた髪は、短くなった分前よりも栄養が行き届いて艶々と輝いた。その二日後、散歩中のスクアーロを見つけたベルは我が目を疑った。
「ねえスクアーロ、何それ…」
「それ?って、何がだ?」
「髪だよ髪。どうしちゃったの一体」
「ああ、髪か。切ったんだ。ザンザスが傷んでるって言うから。別にザンザスも長いのが好きって訳じゃないらしいし、俺も何で髪が長いのか不思議だったし…そんなに変か?」
「変って言うか…だってそれ…」
願掛けだったのに。それも十年以上守ってきた。その言葉を口に出さずに飲み込んで、ベルは歯を見せて笑った。前髪が長くて助かった。多分自分は今目までは笑えていない。
「ししっ、ずっと長かったからちょっとびっくりしただけ。イメチェンも似合ってんじゃん?じゃ、またね」
ベルはそのまま、談話室へ向かうつもりだった行き先を変更して、執務室に向かった。スクアーロは散歩に出ている。その間に終わらせなければならない。こんこん、と固い木のドアをノックして、許可が下りる前にノブを捻る。以前のスクアーロがしたなら、すぐさま万年筆や灰皿が飛んできていた所業だが、ベルはこれで咎められたことは一度も無い。いや、過去に一回か二回はあったのかも知れないけれど、今許されているということは、ザンザスはその時のベルを叱らなかったのだろう。
「何の用だ」
見たところ報告書も持っていない手ぶらのベルに、ザンザスは一度机の上の書類からちらりと視線だけを上げて問うた。部屋の中にはまだ昼食の、トマトソースの匂いが少し残っていた。
「あのさ。さっきスクアーロに会ったよ。髪切っちゃったんだね」
「それがどうした」
「うん。だから俺ボスにお願いがあるんだ。もう止めてくんないかな、おままごと」
きら、とザンザスの首の周りに張り巡らされたワイヤーが、陽光を浴びて光る。ザンザスは溜め息を吐いた。嫌な予感がしていたのだ。八歳年下の、弟のような存在に武器を向けられるのはあまり良い気がしない。甘やかしていた自覚はあるから、それが過ぎたのかも知れない。
「ベル、俺はお前を気に入ってる」
「知ってるよ。だから王子のお願い聞いてくんない?」
「気に入ってるから、殺したくねぇって言ってんだ」
ベルの手に繋がるワイヤーを、オレンジ色の炎の舌がちろちろと舐めた。
「あつ…っ、うあ…ッ!」
手の中の数十本のワイヤーから炎が伝ってきて、あまりの熱さにそれを手放したベルの二の腕を弾丸が貫く。ワイヤー伝いに滑らせたナイフは、ザンザスの肌に触れる前に彼の体の周りの熱で、薄く研がれた刃がくにゃりと曲がってしまった。
「まだやるか?」
執務机についたまま、片手にピストルを構えたザンザスが問う。ボーダーのシャツの袖が見る見る内に赤く染まって、床に血が垂れる。
「ボスは間違ってるよ、ボスが欲しいのは本当にこれなの?違うだろ、でもボスは否定されたくないんだ。あんなのでもSiって言ってくれる方が良いんだ。もうおままごとなんか止めてよ」
「黙れベル」
「っ…が…!」
椅子から立ち上がったザンザスはベルの元へ歩いて行って、鳩尾に拳を叩きこんだ。袖の影からばらばらとナイフが落ちた。まだ華奢な、少年めいた体だ。きらきら煌めく金の前髪の間覗く目がザンザスを睨む。
「弱虫…っげほっ!」
もう一発、今度は膝を埋めると細い体がくの字に折れて倒れ込みそうになる。それを前髪を引っ掴んで止め、平手で頬を張る。これは躾だ。甘やかし過ぎて、自分にこんな口をきくようになった罰。髪から手を離されて支えを失った体が、そのまま血溜まりの中に倒れていくのを見てからザンザスは内線を手に取る。ベルを気に入っているのは本当の事だ。
ベルが目を覚ました時、そこは見慣れた自分の部屋の天井で、傍には寝起きに見るにはちょっときついオカマの顔のドアップがあった。
「あらベルちゃん!良かったわぁ」
「騒ぐなカマ煩い」
「まあ、折角人が心配してずっと付いてたのに、何て口の利き方なの」
「仕方ないだろ、煩いもんは煩いんだし…ていうか俺殺されるんじゃなかったの?ボスは?」
「ボスならお部屋よ。もうびっくりしたわよ。ボスが、ベルが居るから取りに来い、って言うから言ってみたらベルちゃん血まみれで倒れてるし。ボスの機嫌は悪いし…ベルちゃんじゃなかったら殺されてたんじゃない?本当にお気に入りねアナタ」
そろそろと体を起こしてみると、左腕がずきんと痛んだ。ヘッドボードに凭れてみると、鳩尾に湿布が貼られて、ワイヤーを掴んでいた掌にも包帯が巻かれていた。撃ち抜かれた左腕は、ザンザスのことだ。きっと上手く撃っているんだろう。多分綺麗に治る。暫くの間仕事は無理かもしれないけれど。
「お気に入りなんだろうけどさー…お願いは聞いて貰えなかったよ。王子ショック」
「お願い?…スクちゃんのことかしら」
「それ以外に何があるのさ。あれ、どうにかならないの」
「どうにかって言ったってねぇ…」
ベッドの横に置いた椅子の上で、ルッスーリアが困ったように人差し指を顎に当てて考え込む。自身が世間から見ればおぞましいとしか言いようのない、世の中の殆どには理解してもらえない性癖を持っていると、しっかり自覚している彼は、恋人のような家族のような、それでいて軟禁状態である二人の関係は、どこかおかしいとは思いこそすれ糾弾することができない。
なぜかと言えば彼らが幸せそうだからである。スクアーロが記憶喪失になる前の二人は、擦れ違ってお互いに摩耗して、どこまで伸ばしても交差しない平行線のような関係だった。スクアーロはいつも顔や体に青い痣を薔薇の花のように咲かせて、誓いの証である長い髪ばかりが本人の状態には関係なく、あやかしじみていつもきらきらと輝いていた。スクアーロ本人は殴られてふらふらしているのに、髪ばかりは素知らぬ顔で風に靡いて、まるでそれがスクアーロを養分にして育っていくようで、ルッスーリアは時々ぞっとした。
ザンザスはザンザスで、いつスクアーロが自分を見限るかを試すように彼への仕打ちをますます酷くする。殴っても離れないと安心して、けれどもっと酷くすれば自分から離れていくんじゃないかと犯して、それでも離れなければ、今度は幹部が二人で組んでやるような任務にスクアーロ一人を向かわせたり、難易度の高いものばかり続けて命じて音を上げるのを待った。そんな矢先の事故だった。
だからルッスーリアは、傷一つない体で中庭を歩くスクアーロを見る度、執務室に行って、スクアーロが傍に居る時のザンザスの安らいだ表情を見る度、これで良かったのではないかとさえ思う。年月が物の見方を歪ませて、ベルのように二人が間違っている、とは言えない。
「雨の守護者の山本武。スクアーロと戦った奴。あいつもスクのこと気にしてたんだよね」
言葉を途切れさせたままのルッスーリアを余所に、ベルはまた話始める。
「ベルちゃん、もしかして…」
「そ。ボスの部屋に行く前に呼んどいた。俺そのまま帰らぬ人になってたかも知れないし。だからもうすぐ来るんじゃない?」
「ちょ、ちょっと、守護者殺しになんてなったら一大事よ」
「それくらいボスも分かってるだろ、まあ殺しちゃったら殺しちゃっただけど。悔しいけどさ、剣士って所ではあいつの方がスクアーロのこと分かってると思うんだよね」
だから、目ぇ覚まさしてくれるかも。
服とお菓子の袋が散らかり放題になった部屋に、ぽつんとベルの声が零れた。ルッスーリアは何も言わずに黙るしかなかった。何も言えなかった。彼らと同じようには、ルッスーリアは二人を見ることができない。
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